綿雲のしるべ

思い浮かんだことを置いておく場所。読書感想ブログ

『氷』アンナ・カヴァン

 灰色の空。荒廃し、崩れ落ちた砦の瓦礫。捨てられた町、立ち並ぶ木々の黒い影。降り積もる白い雪。そんなモノクロの景色の中に異様な存在感をもってそびえる巨大な氷の壁。それがなぜ、何のために現れたのかは一切不明だが、氷は徐々に拡大し世界を飲み込んでいっている。どうやら世界は終末に向かって進み始めているようだ。

 迫りくる氷壁の輪の中心には氷のように透き通ったアルビノの少女。その少女を挟んで2人の男がにらみ合う。名も無い彼らの三角関係にはフランス文学のような情熱的な恋愛劇は存在しない。彼らはもはや呪いにも似た感情で互いを愛し、苦しめあう。

 歪んだ世界の歪んだ者たち。この物語に正常な物事は何一つ存在しない。中でも主人公である「男」はぶっちぎりでいかれている。彼は世界の終末などお構いなしに、海を越え、国境を越え、地の果てまで少女を追い求める。その執着心は尋常ではなく、戦争に参加したり、恐喝めいたことも平気で行う。彼はなにがあっても恐ろしいくらいに冷静で、人としての感情が欠落してしまっているかのように見えるが、唯一少女が苦しんでいる姿を目にしたときに激しく動揺する。それは何も少女がかわいそうだからというのではない。彼は自分以外の何者かによって少女が苦しめられることが耐えられないのだ。

この腕を愛情を込めて折るのは私でなくてはならなかった。私だけがこのような傷を負わせる資格を持っているのだ。 

 四方を囲む巨大な氷の壁が光を乱反射し、得体のしれない幻像を映し出すかのように、読者は場所も時系列もてんでバラバラな景色の中に放り出される。男によって語られるこの世界では、族の襲撃を受け略奪の限りを受けた村が一夜にして何事もなかったかのように元通りになっていたり、少女は何度も無残な方法で殺されるが、次のページでは生き返っている。まるで男が見たい、というよりも見せたい光景がそこに描かれているように感じた。

 近づいては離れていく少女を男は追い続ける。その途中、少女の手掛かりを失い帰国した男は、警察につかまり裁判にかけられる。少女の失踪事件の証人として呼ばれたようだが、どうにも様子がおかしい。裁判で述べられてる事実と男の証言があまりに矛盾しているようなのである。結局男は精神異常者として釈放されることになるのだが、この辺りからただでさえ謎であった出来事の何もかもがさらに疑わしくなってくる。なにせ男の一人称によって語られるこの物語では、読者はこの男を通してしか世界を知ることができないからだ。精神異常者のこの男を。

 

 街も、人も、心も、なにもかもが凍り付いた世界で、支配欲と嫉妬に駆られ、少女を求める衝動だけが男を突き動かす。やっとたどり着いた先で少女が自分を受け入れないと知れば、激高し、少女を無理やり支配しようとする。少女もまた人との繋がりを渇望し、自分のために働いてくれる男そっちのけで他の男と関係を持ったり、わがままで男を振り回す。誰もが一方的で自分勝手な考えしか持ち合わせていない。醜いこと極まりないが、それでいてなぜか美しい。不思議な感覚を覚える。

 

 

 余談だが、著者のアンナもまた、精神病に苦しみヘロインを常用していた。何度も自殺を図り、1968年に自宅で死んでいるのを確認されたとき、傍らにはヘロインの入った注射器が置かれていた。『氷』はその前年に刊行された小説である。そこになにか関連性があるのかどうかは私の知る限りではないが、アンナもまた、自身に迫る逃れようのない終末を悟り、孤独の不安に苦しみあえいでいたのかもしれない。