綿雲のしるべ

思い浮かんだことを置いておく場所。読書感想ブログ

『山の音』川端康成

 家族って、息苦しい。今の世の中、本当に幸せで明るい家庭というものはあるのだろうか。仕事柄いろんな家庭を見てきたが、一つ屋根の下に暮らしながらもどこか他人然としていて、互いの存在が互いに重圧となっているような、そんな歪な関係ばかりが目についた。

 人はそれぞれ、自分と何かを結び付ける糸を手に持っている。年を重ね、様々な経験を通してその糸の数は増え、複雑に絡まっていく。結び目はどうなっているのか、どうしたらほどけるのか、それは本人にしかわからないし、もしかしたら本人にもわからないかもしれない。そうした諸関係が家庭の中で微妙に交渉しあう。食卓で向き合う家族の中に、だんだんと自分の知らない面が増えてくる。それを探ろうと強引に手を伸ばすと、また違うところで糸が絡まる。なんだかあやとりみたいだな、とふと思った。

 他の糸とは違い、家族という繋がりは容易に断ち切ることはできない。どれだけ相手が憎かろうと、血縁という結びつきは一生付きまとう。日常の些細ないざこざの積み重ね、根本的に異なり、相互理解の叶わない人間性や価値観。拗れに拗れたそれらの糸を断ち切ってしまえるならどれほど楽だろうか。隣の芝生が青く見えたり、よその子がかわいく見えたりするのは、ごちゃごちゃにわだかまった自分から見たその相手がいかにも整然として美しく見えるからではないだろうか。

 

 妻とともに息子夫婦と鎌倉で生活している尾形信吾は、ある日の夜、地鳴りの様に響く山の音を聴いた。低く重くこの山の音は物語の主音として響き続け、暗く悲しい影を投げかける。若き日の恋や息子の不倫と戦争の影、娘の出戻り、複雑な事情が交錯する家庭内で、無邪気な義娘の菊子の存在が信吾にとって安らぎであった。

 

 川端康成は男女間の微妙な距離感の描き方が本当に美しい。信吾はかつて妻である保子の姉を慕っていた。その面影を義娘の菊子に重ねている。菊子もまた、親切で唯一心許せる義父に特別な感情を持っている。2人の間の恋とも呼べない微妙な間柄を表現する言葉の使い方にほれぼれとしてしまう。

 

 川端康成の文章を読んでいると、作品中の音やにおい、温度といったものが肌で感じ取れるようなそんな錯覚を覚える。庭の芝生に染み込む雨の音が聴こえてきそうなほど感覚が鋭敏になるような気がする。これからの季節、庭の秋の虫の声を聴きながら、川端文学を読みふけるのもいいかもしれない。