綿雲のしるべ

思い浮かんだことを置いておく場所。読書感想ブログ

『草枕』夏目漱石

智に働けば角が立ち、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。 

 

 今年の夏、私は京都に出かけた。京都といえば古いお寺や神社などが立ち並ぶ古都という印象を描きがちである。実際には近代化が進んでおり、駅前の景色なんて東京や札幌のそれとほとんど変わらない。バスやタクシーが出ては入ってくるロータリー、林立するガラス張りの高層ビル、若者向けのブランドショップ、全国チェーンのカフェ。日課のように目にしているこれらの光景はそれでも私の心を揺さぶった。どこにでもあるような景色の中に、私の生活は存在しなかった。京都という街の中で、私は全くの無関係な第三者だった。ああ、遠くに来たんだなという安心感が、アスファルトを踏みつける靴の底から染み込んできた。

 旅先の風景を美しいと思うのは、その地で旅人は傍観者になることができるからだ。旅人はそこで生産することを考える必要もなければ、人間関係に煩わされることもない。住みにくい人の世から、住みにくい煩わしさを取り除いた、ありのままの世界を感じることができる。『草枕』は、そうした生き方に憧れた夏目漱石のエッセイのように感じられた。

 

 『草枕』は夏目漱石の代表作としてもしばしば挙げられるが、内容としては万人受けするようかものではない。夏目漱石本人でさえも「天地開闢依頼類のない」小説だと述べている。小説といっていいのかさえ怪しい。一般的に小説にはプロットが存在するが、『草枕』にはそれがない。嫁ぎ先の家の会社が倒産して出戻ってきた女と、お金に困った挙句戦争へ出稼ぎに行く元夫など、それだけで小説が書けてしまうような舞台が用意されてはいるのだが、画工である主人公はこれらの物語に全く関わろうとしない。まるで活動写真を見るように、画工は人間ドラマを傍観し続ける。終始「非人情」で描かれる一連の文体は、俳句や詩のような趣がある。

怖いものも只怖いものそのままの姿と見れば詩になる。凄い事も、己を離れて、只単独に凄いのだと思えば画になる。失恋が芸術の題目となるのも全くその通りである。失恋の苦しみを忘れて、そのやさしい所やら、同情の宿るところやら、憂いのこもる所やら、一歩進めて云えば失恋の苦しみその物の溢るる所やらを、単に客観的に眼前に思い浮かべるから文学美術の材料になる。 

 

 「非人情」について、印象に残っている一節がある。主人公の画工は小説も読むのだが、その読み方が変わっている。適当なページを開き、開いたところをいい加減に読むというものである。筋を追わないで読む小説なんて楽しいのかと、問われた画工はこう答えた。

「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならないわけになりましょう」

・・・

「画工だから、小説なんか初から仕舞まで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留しているうちは毎日話をしたい位です。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなると猶面白い。然しいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初めから仕舞まで読む必要があるんです」

  画工は小説の筋や、話し相手の女、那美との付き合いを楽しんでいるのではなく、ただ純粋に言葉や那美の美しさを楽しんでいるのである。画工は別に那美とどうこうなるつもりはさらさらない。人情の世界に踏み込んでしまえば、人の世の煩わしさが押し寄せてくる。生活から離れたところに立っているからこそ、那美の美しさだけを眺めることができる。この考え方が文章全体にも表れており、プロットのない『草枕』はどこから読んでも楽しめるようになっている。よくわからないけれど、なにか美しいものが流れ込んでくるような、そんな不思議な小説である。無論それは漱石の豊かな語彙と、古き良き日本語の美しさによるところが大きいことは言うまでもない。

 

 人の世が住みにくいからといって、「人でなしの国」で生きていくことは難しい。人に生まれたからには、人の世で生きていかなくてはいけない。

越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。」

 

この潔い前向きな諦めが、固く張り詰めた私の精神をほぐしてくれた。本書をはじめ、『吾輩は猫である』など、いい意味でも悪い意味でも衝撃的だった夏目漱石の文学は、当時の文壇からは「余裕派」と揶揄された。しかしそれでも漱石の本は大衆に広く受け入れられ、同時代の作家である尾崎紅葉幸田露伴と比較しても、現代までに圧倒的多くの読者を獲得している。いつの時代だって人々は『草枕』のようなちょっとキザなくらいの余裕を求めているのかもしれない。

 こんなことを話していたら、また旅行に出たくなってきた。次はどこへ行こうか。できるだけ遠く、私がどこにも存在しない場所へ。