綿雲のしるべ

思い浮かんだことを置いておく場所。読書感想ブログ

『停電の夜に』ジュンバ・ラヒリ

あの日、ショーバには黙っていようと心に決めた。

まだ彼女を愛していたから。

それだけは知らずにいたいと彼女が願ったことだから。

 

 気まぐれで訪れた本屋でたまたま本書を手に取ったとき、私はふとあの夜のことを思い出した。2011年3月11日。日本中を包んだ不安と恐怖を他所に、私は 一人興奮を覚えていた。物音一つ聞こえない夜。窓の外の景色はまるで空と地面が入れ替わったかのようで、街並みは群青色に溶け、普段は見ることの叶わない幾多の星々が地上に向けてその存在を示していた。真っ暗な階段を降りて居間へ向かうと、なかば燃え尽きたローソクが闇と戦うようにその赤い薄明かりを部屋に投げかけ、くたびれたソファの皮を赤銅色になめしていた。飽きるほどに見慣れていたはずの世界はそこにはなく、全く違う場所で全く違う人生が始まったかのような不思議な気分だった。電気がつかなかったのはほんの数日のことだったが、この夜の光景は今でも強く心に残っていた。

 初めて聴いて感動した音楽も、聴き続けていれば次第に心を揺さぶることはなくなってくる。どんなにつらく苦しいことでも、慣れてしまえば抵抗を感じなくなってきてしまう。使い方によっては人を操ることだってできるほどに、習慣はあらゆる感覚を麻痺させる。一方で、ルーチン化した生活の中で起きた変化は、人の関心を強く惹きつける。時には忘れられていた記憶や、新しい感情を呼び起こすこともある。私が本を読むのは、様々な時代・場所に生きた人の言葉や考え方に触れることで、そうした変化を求めているからかもしれない。

 

・・・

 

 ショーバとシュクマールはかつて仲睦まじい夫婦だった。しかしそんな彼らの幸せは、初めてできた子供の死産によって徐々に狂い始め、今では同じ家に住みながらお互いを避けるような生活を送っていた。そんな二人のもとに毎夜一時間の計画停電の通知が届く。ロウソクの明かりの中で、久しぶりに顔を合わせて一緒の夕食をとる二人。妻のショーバはある提案を持ちかけるーお互いの秘密を打ち明け合おう。

 相手を、あるいは自分自身を裏切ったちょっとした出来事を白状し合う。どういうわけか決まりごとのようになったこの打ち明け話によって、暗闇で身を寄せ合う二人は少しずつ関係を修復していくようだった。

 計画停電最後の夜。その日はどこかショーバの様子が違っていた。やがて彼女は最後の秘密を打ち明ける。

「アパートを探してたんだけど、見つかったのよね」

 今日の帰りがけに、もう契約は済ましてきた。彼女がそう告げたとたん何かが崩れた気がした。今までの夜はこの話のためだったのかもしれない。シュクマールはそう考えた。シュクマールの番になり、彼は自分でも忘れようと努力していた秘密を打ち明ける。

「男の子だったよ」

 子供の性別は生まれてきてからのお楽しみということで決めてあった。死産のことを告げた際、せめて知らずに済んだだけよかったと彼女は言った。しかしシュクマールだけは知っていたのだった。ショーバが寝かされている間、シュクマールは妻が触れることのできなかった我が子を抱き、動くことのないその小さな体を胸にあてていたのだった。

 愛を失った人はこれほどまでに残酷になれるのかと、ただた悲しかった。こんな結末のためにこの打ち明け話を始めたわけではなかったはずだ。お互い心のどこかできっとやり直すきっかけを探していたであろう。思えば2人は相手を気遣うあまりに子供に関することを避け続けてきた。しかし今この時こそ、2人が前に進むために真剣に向き合うべきだった。そしてその機会はもう永遠に失われてしまっただろう。

 かつては拠り所となっていたロウソクの火は、静かに涙を流す2人の間で、ほの暗く揺らめいていた。

『遠い山なみの光』カズオ・イシグロ

あなたが誠実に努力なさったことを疑っているわけではないんです。そんなことは、ちょっとでも疑ったことなんかありません。ただ、その努力の方向が結果的に間違っていた。悪い方向へ行ってしまったんです。あなたにそれがお分かりになるはずはなかった。けれでも、それは事実だと思うんです。 

 

 敗戦によって、日本は国そのものが変えられたと言っても過言ではないほどの大きな転換期を迎えた。あらゆる価値観が覆され混乱した世の中で、家を失い、家族を失い、生活を失った人々は、それでも前に進もうとみな必死に努力していた。

 日本を去りイギリスに住むようになった悦子は、長女の景子の自殺に直面し、かつての友人佐知子との出来事を振り返る。戦前は裕福な暮らしをしていたらしい佐知子は現在の生活に耐えられないらしく、アメリカに連れて行ってくれるというアメリカ人のあてにならない約束を頼りにしていた。当時はまだ外国に行くなど考えもしていなかった悦子には、佐知子の態度が彼女の一人娘である万里子をおざなりにしている見え、非難するような節もあった。しかし外国にきて娘を失った今、悦子はその佐知子の生き方に自分を重ねている。何が正解かなど誰にもわからなかった。それでも現状を変えようと必死だった悦子の努力は立派だったと、もう一人の娘ニキは言う。自分の価値観に従って生きるために、自立して生きるために故国を捨て、愛していた家族を捨てることになった悦子の過去の清算はもの哀しい。

 戦争によって価値観が覆された世の中で、人と世界が、人と人とがかみ合わなくなってしまったような薄暗い不安感が作品全体を包んでいる。今を捨て、外国に行くという微かな希望にすがる佐知子と、当時はまだ今を肯定していた悦子。戦前は教育者であった悦子の舅である緒方と、当時の悦子の夫であり、新しい価値観とうまく折り合いをつけて生きている二郎。戦前の教育方法の過ちを主張する、二郎の旧友であり緒方の元教え子でもある教師の松田。彼らはお互いに心の底で否定し合いながらも衝突することはない。変わらないといけないことと変わることの大変さを理解しあっている彼らは、歪な距離感で接し合う。

 読者もまた、その歪な枠組みの中に組み込まれてしまっている。特に作中の大部分を占める過去の回想において、ほとんどの小説に見受けられるような登場人物の心理描写は皆無と言っていいほど削られており、彼らに読者が投影し入り込む隙はない。心理描写がないだけに登場人物同士の噛み合わない会話が一層歪なものに感じられる。それが顕著なのが主人公の悦子の過去である。私たちは悦子が外国へ住むことになったきっかけや、悦子の新しい夫は誰なのかを知ることはできない。二郎と結婚するにあたって何か重要な事件があったようなのだが、そうしたことを知ることができない。佐知子と悦子の会話においても時に会話が成り立っていないレベルでちぐはぐなのに加え、悦子の心理は意図的に隠されているようで、顔が歪められた人の肖像画を見ているようなそんな不安に駆られる。何を考えているのかはっきりとはわからないが、言葉の端から何となく推測はできるように表現されており、それだけに悦子が恐ろしくなることもある。物語の終盤、佐知子の家から飛び出した万里子と悦子の会話では、一見優しい言葉をかけているように思われながらも、どこか残酷で恐ろしい感情がそこに込められているようで鳥肌が立つような思いがした。単に私の思い過ごしかもしれないが、結局のところその真意を知ることはできない。読者はどこまでも傍観者なのである。

 

 悦子の新しい夫との間の娘ニキは、女性の自立という本作の一つのテーマを象徴する人物である。自分の人生を歩むために大きな決断をした母悦子のことをニキは尊敬しているようで、長女景子を失った喪失感に暮れる悦子を励ます。

「年齢なんてどうだっていいわ。問題は経験よ。百まで生きたってなんの経験もしない人だっているわ」

「子供とくだらない夫に縛られて、みじめな人生を送っている女が多すぎるわ。それでいて、勇気を出して何とかすることができない。そのまま一生を終わっちゃうのよ」

 今でこそ結婚しない生き方が認知され始めてはいるが、まだ家庭を持つことが当たり前だった本書発行当時の1982年にこの言葉を読んだ人々の衝撃はいかほどだろうか。たとえ失敗したとしても、自分の生きたいように生きるために努力することの尊さを訴えたニキに勇気づけられた人は多いことだろう。悦子もまたニキの強い在り方に背中を押され、物語の最後には景子の影が残る今の家を売ることを考えるようになる。

「あなたのことを恥ずかしいと思ってるわけじゃないのよ。あなたは自分でいちばんいいと思う生き方をなさい」

 悦子がニキに語ったこの言葉は、悦子自身にも向けられたものなのかもしれない。

 

 

 同作家の本は以前に『日の名残り』を読んだきりで本作で2作目なのであるが、共通して感じられるのは薄暗さ、というよりは、そうした暗さの中にある微かな明るさといったところだろうか。大きな価値観の変遷に戸惑い、苦しみながらも、必死にもがいて探り当てた新しい生き方への小さな希望を頼りに自立していく、そんな明るさがある。人生には様々な後悔がつきものである。あの時できなかったこと、してはならなかったこと。こうした過去は心の奥底に嫌なしこりとして残り続ける。それは放置すればするほど根を張り、取り除くには大きな傷を伴うこともある。しかしそうしてできた傷もいつかは懐かしい思い出となるだろう。これでよかったのだと過去を清算し、懐かしい痛みに郷愁を覚える人生の円熟期。夜と夕方が混じり合う菫色の空。私がカズオ・イシグロに感じるのはこうした情景だ。

f:id:shirubegumo:20190128171911j:plain

 

『金閣寺』三島由紀夫

金閣は無力じゃない。決して無力じゃない。しかし、凡ての無力の根源なんだ」

  自分を変えるということは難しい。一度形成された性格はもはや変えることはできない。変えられるとしたら意識だけだ。人は知識や経験を重ね、理性を働かせ、場面に応じた適切な行動、言動を意識的に選択することによって、態度や立ち振る舞いを変えることはできる。しかし、本質的な部分は変わることがない。

 そのため、周囲の環境にどうしても馴染めないような時は、環境を変化させることが望ましく、手っ取り早い。いくら環境に自分を合わせようと努力したとしても、自分の本質的な部分がその環境を拒んでいたとしたら、やがて内的な自分と外的な自分の距離が開いていくことに精神が耐えられなくなってしまうだろう。

 

 ではもし自分という存在が、この世界全てから拒絶されたとしたら一体どうなるだろうか。どこにも逃げ場所などない、存在することの許されない世界で、人はどうやって生きていけばいいのだろうか。『金閣寺』の主人公の<私>は、そうした苦悩を抱え、生を呪い続けた先で、金閣を焼いた。

 

 <私>は孤独な少年だった。家庭環境や交友関係、戦争、そして何より吃音症というハンディキャップが、彼の心をより暗く染め上げていった。

人に理解されないということが唯一の誇りになっていたから、ものごとを理解させようとする表現の衝動に見舞われなかった。人の目に見えるようなものは、自分には宿命的に与えられないのだと思った。孤独はどんどん肥った、まるで豚のように。 

私の少年期は薄命の色に混濁していた。真暗な影の世界は恐ろしかったが、白昼のようなくっきりとした生も、私のものではなかった。 

 <私>は決して救われてはならない存在であった。彼が救われる時、それは彼が世界に理解され、受け入れられたということであった。人に理解されないということが<私>の存在そのものにまでなったころには、<私>はどこまでも救われない存在としてどこか破滅的な運命を望むようになっていった。

 

 やがて<私>は父の縁により金閣寺に預けられることになった。そこで生活を始め、修行をしながら大学へと進んだ先で柏木という人物に出会う。柏木とは、<私>とおなじようにハンディキャップを負っていながらもそれを恥とせず、時陽光の中に影として堂々と存在しているような人物であった。<私>はその人生観や彼の内包する暗黒に強く惹かれ、お互いに近いものを感じる二人は行動を共にすることが増えていった。

 

 <私>が金閣を焼こうとしていることに真っ先に気が付いたのも柏木であった。「なにか破滅的なことを企んでいる」と悟った柏木は、<私>と議論を交わす。

俺は君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるのは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。それが何の役に立つのかと君は言うだろう。だがこの世界を耐えるために、人間は認識の武器を持ったのだと云おう。 

 この一文は私にゲーテのウェルテルを思い起こさせた。ウェルテルは報われない恋を呪い、その運命を呪った。相容れない世界に耐えるために彼がとった方法、それは、自分が望めば好きな時に、自ら命を絶つことができるという認識をもって安心感を得ることであった。私たちを取り囲む世界は、絶対的な存在である一方、私にとっての世界は私が認識する限りにおいてのみ存在する相対的なものである。私がいなくなった後の世界とは存在しないも同然とも言うことができる。世界から拒まれている私が、その実世界を支配している。世界そのものを不変のままに変貌させる。残酷な救いの道に私は共感を覚えた。世界との和解を拒み、暗黒を生きる彼らにはもはや他に方法はないのだ。

 

 本当に読んでいて気分の悪くなるような小説だった。救いなどどこにもないどころか、決行前夜のまさに最後の最後で最も残酷な形で現れる。しかし不思議な魅力が私をとらえて離さず、読み終わってからすぐにまた初めから読み返した。それほどまでに没頭した『金閣寺』だが、その全てを語ろうとするとそれができなかった。あらすじを書いているだけでも『金閣寺』の持つ圧倒的なエネルギーとも呼ぶべきものが失われていくのに気が付いた。本書の魅力は、青年の壮絶な生への苦悩と、呪いにも似た言葉の一つ一つにある。一文一文が重いのだ。幼少期の出来事、金閣寺での生活、鶴川と柏木といった友人の存在、老師との関係、美への執着、金閣を焼いた理由。話すべきことは山ほどあるが、これらを要約してしまえばしまうほど『金閣寺』を冒涜しているような感覚に襲われた。何度も書き直して、結局そのほとんどを書かないことに決めた。

 

 言い訳がましくなってしまったが、それだけすごい作品ということだけでも伝わってくれたらと思う。世の中に居づらさを感じ、言葉にできないような暗い感情を抱えている人は一度読んでみるといいかもしれない。その心を理解して、言葉にできない感情を代弁してくれる文章がここにはあるはず。

f:id:shirubegumo:20190121224929j:plain

 

 

『銀河鉄道の夜』 宮沢賢治

 なんてきれいな言葉を使うんだろう。昔読んだ時には気づかなかった、宮沢賢治の文章の美しさと悲しさ。やっぱり日本語はいい。英語とほんの少しのドイツ語しか知らない私が言うのも問題がありそうだが、こと文語的表現の美しさにおいて日本語に勝る言語はないと考えている。そもそも世界から見ても日本語の語彙は特殊だ。これは個人的な意見だが、ソネット叙事詩といった口語的韻律に重きを置いた文化が発展したラテン系・ゲルマン系言語圏と、漢詩や短歌など文語的表現力に重きを置いた日本の差によるものではないのだろうか。どうやら余計な話をしすぎたようだ。これ以上私の拙い日本語講座を続けてうんざりさせてしまうよりは、宮沢賢治の描く美しい世界を紹介した方が得策というものだろう。

 

銀河鉄道の夜

 主人公のジョバンニは孤独な少年だった。父は遠い海へ漁に出かけたきり戻ってこず、 密漁でつかまったのではないかという噂まで流れ、それがもとでクラスメイトから嫌がらせを受けていた。病気で臥せっている母のため、学校が終わってから働いて小銭を稼ぎ、食べ物を買っていた。カムパネルラは、そんなジョバンニの唯一の味方だった。ある日の夜、ジョバンニが丘で横になっていると不思議な声が聞こえてきた。そして目の前がぱっと明るくなったかと思うと、気が付いた時にはカムパネルラと一緒に天の川を走る列車に乗っていた。列車の窓から見える光景に二人は心を躍らせる。

「そうだ。おや、あの河原は月夜だろうか。」

そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀色の空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波をたてているのでした。

「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云いながら、まるではね上りたいくらいに愉快になって、足をこつこつ鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛を吹きながら一生けん命延びあがって、その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気を付けてみると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとおって、ときどき眼の加減か、ちらちら紫いろのこまかな波をたてたり、虹のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れていき、野原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしくたっていたのです。

 列車は二人のほかに多くの乗客を乗せて、青白く輝く天の川をどこまでも走っていく。しかし先へ進むにつれて、乗客は一人、また一人と消えるようにして減っていく。この天の川を走る列車は、死者を天上まで連れていくための列車。乗客は全て、すでに死んでしまった人々なのだった。

 ほんとうのさいわい(幸せ)とはなんなのだろうか。物語中様々な人物の口から、この問いが投げかけられる。ジョバンニとカムパネルラに同席した、青年と幼い男の子と女の子の三人組は、空気が凍り付くような 北の海で、乗っていた船が氷山にぶつかって沈没して亡くなってしまったようだった、青年はその時の様子をこう語った。

もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せてくださいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈ってくれました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんかがいて、とても押しのける勇気がなかったのです。

このまま神のおん前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。けれどもどうして見ているとそれができないのでした。子どもらばかりボートの中へはなしてやってお母さんが狂気のようにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなどとてももう腸もちぎれるようでした。 

 そのうち船は沈み、せめて浮かんでいられるだけは浮かんでいようと青年は二人を抱きかかえた。そして渦に飲まれ、気が付いた時には列車に乗っていたという。

「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上り下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」

灯台守がなぐさめていました。

「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためのいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」

 青年が祈るようにそう答えました。

 

氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍り付く潮水や、烈しい寒さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている。ぼくはそのひとにほんとうに気の毒でそしてすまないような気がする。ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう 

  だれかのさいわいのために何ができるか、青年の話を聴いたジョバンニは塞ぎこみ、苦悩した。

 

 やがて列車は青白く輝く大きな十字架がそびえる南十字駅までくると、そこで青年と幼い二人の子をはじめ多くの乗客が降りて行った。座席にはジョバンニとカンパネルラの二人だけが残った。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百っぺん灼いてもかまわない。」

「うん。ぼくだってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。

「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。

「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。

 やがてカムパネルラは窓の外に死んだ母の姿を見つけ、消えていく。窓の外に向かって激しく叫び泣いたジョバンニの視界は真っ暗になり、気づけば丘の上に戻っていた。帰り道、カムパネルラと最後にすれ違った橋のそばを通ると人だかりができており、嫌な予感がしたジョバンニは駆け寄っていく。

「ジョバンニ、カムパネルラは川へはいったよ。」 

 舟から落ちた友だちを助けるために川へ飛び込んだカムパネルラがいつまで経っても上がってこず、見つからないのだという。ジョバンニには、カムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいないような気がした。

 

 なぜカムパネルラは消えたのか。ほんとうのさいわいとはなんなのだろうか。列車の乗客は、生前よりよいことをした人ほど遠く高く天上へと昇っていけるようだった。子どもだけは助けようとしている親を見て、彼らを押しのけることができなかった青年たちは、南十字までの切符をもらえた。嫌がらせをうけているジョバンニの味方をし、舟から落ちた友だちを助けたカムパネルラはその先まで乗っていた。自己犠牲をしたものは救われる、と解釈してしまえばそれまでだが、もっと深い何かがあるように感じる。

 天上へと昇ることが救済であり、さいわいである。というのも考え方の一つではあると思う。しかしここで、青年の悩みと、カムパネルラがなぜ消えたのかということについて考えてみたい。青年は悩んでいた。自分の行ったことが正しかったのかどうか。子ども二人だけでも助けてあげた方がよかったのではないか。カムパネルラもまた悩んでいた。「おっかさんは、ぼくをゆるしてくれるだろうか。」友だちを助けるために自ら命を落としてしまった自分を、2年前に既になくなっていた母は果たして受け入れてくれるのかどうか。二人に共通しているのは、自己犠牲への疑問。しかし二人はそれぞれ、青年は灯台守に慰めされ、カムパネルラは自分を優しく迎えてくれる母の姿を見て、救われ、列車を降りて行った。単純な自己犠牲の行動だけではなく、「だれかのさいわいのために自分をささげられることがさいわいである」このことを心から信じられることこそが、さいわいであり、救済である。と宮沢賢治は考えたのではないのだろうか。

 

 ジョバンニは列車の旅を通じて、塞いでいた心を開き、誰かのさいわいのために生きようと決意する。恩寵を得るための自己犠牲ではなく、誰かのためになることが自分のさいわいであると信じること。そう信じて生きていけることこそが幸なのだ。自分さえよければよくて、自分一人だけで生きていけたら幸せだなどと考えている私などにとっては逆立ちしたって出てこない考え方だが、こうやって生きられたらどんなにいいだろうかとうらやましくも思う。この考え方はキリスト教に近い、というよりもほとんどキリスト教の考え方でもあり、「レ・ミゼラブル」では主人公のジャン・バルジャンや、ジャン・バルジャンを救ったミリエル司教がこの生き方を体現しており、同書を読んだ際には彼らの生き方の美しさ、信仰の尊さに胸を打たれた。

 

 およそ10年ぶりにもなる宮沢賢治だが、再読でこれだけ多くの発見があったことに驚いた。また10年20年先、どんな心境で私はこの本を読み返しているのだろうか。その頃には私も、誰かのために生きたいと願っているのだろうか。生きる楽しみが少し増えたような気がする。 

 本当は他の短編も紹介したかったのだが、思った以上に長くなってしまったので、そちらの紹介はまた今度にしよう。

f:id:shirubegumo:20181221221322j:plain

 

『ドン・キホーテ 前編』セルバンテス

われこそは、暴虐と不正の掃討者たる、勇猛果敢なドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャなるぞ。さあ、神のご加護を受けるがよい。

 

 2002年5月8日にノーベル研究所と愛書家団体が発表した、世界54か国の著名な文学者100人の投票による「史上最高の文学百選」で1位を獲得し、あのドストエフスキーに「人類の天才によって作られたあらゆる書物の中で、最も偉大で最ももの悲しいこの書物」と言わしめた小説。あまりにも有名すぎて、名前は知っていても最初から最後までちゃんと読んだことがない読み物ランキングがあったとしたら間違いなく上位に入って来るのではないかという気もする。おおよその内容は知れわたっているし、とにもかくにも長いので、後回しにもしたくなるというものだ。私もたまたま訪れた本屋で前編1~3がきれいな状態でそろっているのを目にすることがなかったらおそらく手に取ることはなかっただろう。そうした成り行きで本書を開いたのだが、さすが史上最高の文学、これがまあ面白いのでさくっと読めてしまった。さて、前置きはこのぐらいにして、本書の内容を語っていこう。

 

 『ドン・キホーテ』はスペインのラ・マンチャ地方という田舎に住む、そこそこの有力者であったキハーダという初老の男が、ある日騎士道物語に夢中になり、自分がまさに本の中に出てくる遍歴の騎士であると思い込み、貴族を表すドンという尊称を用いて自らドン・キホーテと名乗り、年老いてよぼよぼの馬のロシナンテと、お供のサンチョを引き連れて旅に出るという物語である。とにかくドン・キホーテの狂気っぷりがおもしろい。スペインのありふれた田舎の光景は、ドン・キホーテの妄想によってさまざまな危険と名誉に満ちた冒険になってしまう。風で回る風車を巨人だと思い込んで突撃し、回っている羽に飛ばされて返り討ちにあった逸話などは知っている人も多いのではないのだろうか。その他にも彼は、隣村に住んでいる4回程度しかチラ見したことのない農家の娘を勝手にドゥルシネーア姫と呼んで、己の騎士道物語のヒロインに仕立て上げたり、宿屋に泊まれば「本の中で騎士たちがお金を払っているところなど見たことがない」と宿泊代を踏み倒したり、通りがかった床屋の持っている金盥を伝説の兜だと思い込み、床屋を襲ってそれを奪い取ったり、囚人を移送中の一団に遭遇すれば、自由を奪われた哀れな人々を解放するための戦いを挑むというめちゃくちゃなことをする。騎士というよりもはや追いはぎか強盗かなにかのようだ。そうしてしかけた英雄的戦いの数々は、大体の場合は失敗に終わり、お供のサンチョともども散々に打ちのめされてひどい目に遭うというオチが待っている。しかしどれだけひどい目に遭っても、自分が最強の騎士だと信じて疑わないドン・キホーテは、自分に都合の悪い事が起きるとそれを全て悪い魔法使いのせいにするのである。

 私が特に気に入っているのは、彼の初めての冒険の帰り道に起きた一幕。ドン・キホーテが長旅のための道具を揃えに村に戻ろうとする最中、木に縛り付けられた少年と、それを鞭打つ農夫の二人組を目にした。その光景に騎士道的な冒険を感じずにはいられなかったドン・キホーテはさっそく駆け寄った。

「不埒な騎士め!身を守ることもできないものを痛めつけるなんて許せん!槍を構えて勝負しろ! どれだけ卑劣なことをしているか思い知らせてやる!」

 この時点でドン・キホーテは、相手が農夫ではなく弱い者いじめをしている騎士だと思い込んでいるのである。既にばかばかしいが話を続けよう。

 さて、いきなり現れた鎧をまとった男に槍を突き付けられた農夫は慌てて弁解する。彼の語るところによると、この少年に羊の番をさせていたのだが、毎日必ず羊を一頭見失ってくる。それを注意すると、農夫が給料をきちんと払わないからだというのだがこれは真っ赤な嘘であり、だからこうして痛めつけているらしい。

「なに嘘?拙者の前で他人の嘘を暴きたてるというのか、このさもしい田舎者め!つべこべ言わずに払ってやれ!さもないとこの槍で打ち倒すぞ!」

 いやこれもうどうすればいいのか・・・

 とにかくこの男、人の話を聴かない。というよりも、騎士道物語に影響されすぎて、どんな事情があれ、いじめられている物は助けなくてはならないという考えにとらわれているのである。恐れをなした農夫は少年を解放し、給料をきちんと支払うことを約束する。それを聴いたドン・キホーテは満足し、もし約束を破ったらすぐに駆け付け、騎士の誓いにかけて厳罰を与えてやるからなと言い残し、その場を去っていく。

 やがてドン・キホーテの背中が見えなくなると、農夫は少年を呼び寄せて言った。

「さあ、こっちにおいで、かわいいぼうや。あの暴虐の掃討者とやらの命令通り、お前に借りを返してやろうじゃないか。」

「そうだよ、そうこなくっちゃ!旦那もあの騎士の言いつけ通りにしなさったほうが身のためだよ。もし旦那が約束を破ったらすぐに引き返してきてくるに違いないからね。」

「わしだってそう思うさ。だがわしはいよいよお前のことがかわいらしくてたまらなくなってきたものだから、お前に対する支払いを増やすために、まず借りの方をうんと増やしてやりたいんだよ。」

 そう言うと農夫は少年を再び縛り付け、先ほどよりも手荒に打ち据えたのである。

 そんなことが起こっているとはつゆ知らず、一方のドン・キホーテは自分の華々しい成果をつぶやきながらドゥルシネーアに想いを馳せていたのだった。

 

 ドン・キホーテの冒険は終始このように誰も幸せになれないめちゃくちゃなものであるが、物語の後半では彼の騎士道に巻き込まれた人々が集まり、素晴らしい人間ドラマが生まれたりなど、ちょっとくらいはいいところもあったりする。そんな素晴らしい一幕においてドン・キホーテ本人は全く蚊帳の外だったのだが・・・。

 

 『ドン・キホーテ』には著者セルバンテスの自伝めいたところもある。セルバンテスはかのレパントの海戦に兵士として参戦して大手柄を挙げたのち、帰国途中に船が襲われ、奴隷として連れていかれてしまうのだが、それとほとんど同じ経歴を持つ男が登場する。また、セルバンテスが身請けされ、念願の帰国を果たすと、時の権力者にレパントの海戦の恩賞を求めるのだが、すげなく却下されてしまう。そうして悲嘆に暮れたセルバンテスは、本来なら得られるはずだった名誉への郷愁として、騎士道物語にあこがれるドン・キホーテを表出したのかもしれない・・・とは巻末の解説からの受け売りだ。『ドン・キホーテ』を読む前に、セルバンテスの一生をさらっと知っておくと、よりこの物語を楽しむことができるかもしれない。

 

 『ドン・キホーテ』前編の好評を受けて、前編発刊から10年後に書き上げた後編では、ドン・キホーテと従士サンチョの伝記(前編の物語)が世に広まり、大人気であるという設定で始まる。そうしてドン・キホーテは再び旅に出るのだが、その旅模様は前編とうって変わって暗く憂鬱なものである。有名になった二人は訪れる先々で人々の嘲笑の的になる。私たちはこの男を笑っていいのだろうか、そう思ってしまうほど人間の闇を感じてしまう。そんな作品になっている・・・らしい。できるだけ早く続きを読んでみたいが、近隣の本屋にはなかなか置いておらず、結局目移りして他の本を買う始末。浅はかな。当時の人たちは10年も待ったんだし、多少時間を空けた方がより10年後という設定になじめるだろうと半ば無理やり納得し、あてもなくふらっと訪れた先での偶然の出会いを期待して、気ままに本屋を遍歴してみようと思う。

f:id:shirubegumo:20181216194439j:plain

 

『怒りの葡萄』スタインベック

ほんとうに生きている民は 、あたしたちなんだ。あいつらが、あたしたちを根絶やしにすることなんかできない。だって、あたしたちが民なんだから―生き続けるのは、あたしたちなんだから 

 5年後、10年後、世の中はどう変わって、その時私は何をしているんだろうか。おぼろげながらも何となく感じ取ってしまう未来図。将来への不安。やらなければいけないことはわかっている。しかし、それをやったところで、はたして意味はあるのだろうか。私が望む未来は、そこまでする価値のあるものなのだろうか。そうしていろんなことを諦めて、妥協して、手元に残った空虚な満足感を頼りに毎日を消化してく。

 先のことばかり考えて、やりきれなくなって、私たちは今目の前にあるものが見えなくなっているのかもしれない。

 

 1930年代、ダストボウルと呼ばれる大規模な砂嵐がアメリカ中西部を襲い、耕作地をめちゃくちゃに荒らしていった。耕作不可能となった所有地を追われ、大量の農民たちが流民となってカリフォルニアに殺到した。カリフォルニアの農場では、50人分の仕事に、200人の流民が詰め寄せた。一人当たりの賃金はどんどん下げられていき、家族総出で一日働いたとしても1ドルにしかならなかった。こんな給料じゃ働けないと去っていく者がいる一方で、飢えた人々は次々と仕事を求めてやってくる。家族を食べさせるために、彼らには選択肢はなかった。毎日をやっとの思いで食いつなぎながらも、栄養失調で倒れていくものが後を絶たなかった。農場主たちは、日に日に数を増す流民たちが徒党を組んで暴動を起こすのを恐れ、武器を買い、警備員を大勢雇った。恐慌の煽りを受て物価が下がり、収穫しても利益が取れなくなった作物は、熟れたまま放置され、鳥に啄まれ、腐り落ちた。飢えた子らにパンを与えられるお金は彼らを迫害するために用いられ、彼らの空腹を満たすことのできる十分な量があったはずの果物が配られることなく地に落ちた。オーキーと蔑まれた流民たちは、野営地にキャンプをつくり静かに暮らしていたが、度々保安官がやってきては難癖をつけて流民たちを引っ張っていき、キャンプ地を焼き討ちした。保安官たちには、流民を逮捕すれば報酬が与えられることになっていた。

 明日生きていけるかどうかすらわからない不安の中でも、人々はたくましかった。彼らは家族のために助け合い、その日一日を必死に生きていた。

先のことなんかわかりゃしないー山ほどのことがあるんだ。どんな暮らしになるか、わかりゃしないけど、いざとなったら、ひとつの暮らししかないんだよ。先のことをありったけ考えてやってったら、やりきれなくなるのさ。 

 悩んでいる暇があるくらいなら、今できることをやるんだと叱られたような気持になった。

『ハツカネズミと人間』スタインベック

「わかってたはずなんだ」とジョージが絶望的に言う。「心の奥底では、たぶんわかってたんだ」 

  ちびのジョージとのっぽのレニー。レニーは人より知恵が遅れており、まるで子どもがそのまま大人になったような人物で、昔馴染みのジョージはそんなレニーの面倒を見ていた。二人は農場で働きながらお金を稼ぐが、いつもレニーがなにか問題を起こし、農場にいられなくなってしまう。そうしてカリフォルニアの農場を転々と渡り歩きながら、「いつか自分たちの土地を持って、土地のくれる一番いいものを食べて、ウサギを飼って暮らそう」そんな夢を語り合う二人の物語。

 途中まではとにかくレニーにイライラ、ハラハラさせられた。レ二―は言われたことをほとんど覚えられず、常識もない。動物が好きなのだが、力の加減を知らないせいで殺してしまう。それを何度も繰り返す。なんでこんな男の世話をジョージはしているんだろう。力だけはあって人の2倍は働けるから、大方利用しているだけだろう。そんな感想を持ちながら読み進めていたが、ジョージがスリムという同僚に話した二人の過去を聞いて考えが変わった。昔のジョージはレニーをからかって遊んでいた。何をしても悪意に気づかず、遊びだと思い込んでなんでも言うことを聞いてくれるレニーにいい気になっていた。ある時ジョージは川に飛び込めとレニーに命令する。レニーはためらうことなく川に飛び込んだが、泳げないレニーは溺れかけてしまう。ジョージは慌ててレニーを助けるが、そんなジョージに対してレニーは怒るそぶりもなく、助けてくれてありがとうとお礼を言った。それ以来、ジョージはレニーをからかうことをやめたのだった。

 レニーはただ力が強いだけの大きな子どもだった。どんな行動にも悪意はなかった。しかしある日とうとう取り返しのつかない事件を起こしてしまう。一人逃げ出すレニーと打ちひしがれるジョージ。ジョージこの時悟った。思い描き、語り合った夢は決して実現しないこと。レニーがいつかは恐ろしい事件を引き起こしてしまうこと。レニーといつまでも一緒にいるわけにはいかないこと。これらの事実を、今まで見て見ないふりをして誤魔化し続けてきたこと。

 他の人間に見つかれば、リンチされ、散々苦しめられて殺されてしまうだろう。誰よりも自分が先にレニーを見つけなくてはならない。「あの犬は自分で撃てばよかった。よそのやつに撃たせるんじゃなかった」ずっと一緒に生きてきた牧羊犬を、年老いて役に立たなくなったからと射殺された、キャンディの言葉が思い出される。万が一の時に落ち合う場所なら決めていた。ジョージはレニーのもとへ急ぐ。

 「前みたいに話してくれよ」いつものように夢を語り合う二人。しかしこの時にはもう状況はなにもかも変わってしまっていた。夢を語り、純粋に二人のこれからを思い描くレニーと、叶わぬ夢を語り、これまでの二人に思いを馳せるジョージ。作中で繰り返されてきた二人の夢の話がこの時複雑な響きをもって頭の中で反響する。「おまえがいなければ俺はもっと楽に生きていけるんだ」とジョージはよくレニーに向かって言っていた。本当に相手の存在を必要としていたのはジョージのほうだったのかもしれない。

 

 文庫サイズで150ページと短い作品だが、これ以上付け足す必要のないくらい完成されていたように思う。それくらい無駄のない完璧な世界だった。終わり方もなかなかにくい。この小説の最後は、「あの二人(ジョージとスリム)、いったい何をそんなに気にしているんだろうな」というセリフで終わる。レニーを追いかけていた人物たちに、ジョージがなぜうなだれ、意気消沈しているかを知る者はいない。ジョージと二人の理解者であるスリム、そして、この物語を読み進めてきた読者にしか知りえないことだ。この最後の一文の無神経さに読者は憤りを覚えることだろう。この時読者は既に物語の傍観者ではなく、レニーとジョージの二人を見守ってきた当事者として、彼らの間に立っているのである。一貫して外面的な描写と登場人物の会話中心の戯曲的な雰囲気の作品でありながら、最後の最後に読者を引き込んでくるこの一文の使い方に衝撃を受けた。

f:id:shirubegumo:20181029171057j:plain