綿雲のしるべ

思い浮かんだことを置いておく場所。読書感想ブログ

『ドン・キホーテ 前編』セルバンテス

われこそは、暴虐と不正の掃討者たる、勇猛果敢なドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャなるぞ。さあ、神のご加護を受けるがよい。

 

 2002年5月8日にノーベル研究所と愛書家団体が発表した、世界54か国の著名な文学者100人の投票による「史上最高の文学百選」で1位を獲得し、あのドストエフスキーに「人類の天才によって作られたあらゆる書物の中で、最も偉大で最ももの悲しいこの書物」と言わしめた小説。あまりにも有名すぎて、名前は知っていても最初から最後までちゃんと読んだことがない読み物ランキングがあったとしたら間違いなく上位に入って来るのではないかという気もする。おおよその内容は知れわたっているし、とにもかくにも長いので、後回しにもしたくなるというものだ。私もたまたま訪れた本屋で前編1~3がきれいな状態でそろっているのを目にすることがなかったらおそらく手に取ることはなかっただろう。そうした成り行きで本書を開いたのだが、さすが史上最高の文学、これがまあ面白いのでさくっと読めてしまった。さて、前置きはこのぐらいにして、本書の内容を語っていこう。

 

 『ドン・キホーテ』はスペインのラ・マンチャ地方という田舎に住む、そこそこの有力者であったキハーダという初老の男が、ある日騎士道物語に夢中になり、自分がまさに本の中に出てくる遍歴の騎士であると思い込み、貴族を表すドンという尊称を用いて自らドン・キホーテと名乗り、年老いてよぼよぼの馬のロシナンテと、お供のサンチョを引き連れて旅に出るという物語である。とにかくドン・キホーテの狂気っぷりがおもしろい。スペインのありふれた田舎の光景は、ドン・キホーテの妄想によってさまざまな危険と名誉に満ちた冒険になってしまう。風で回る風車を巨人だと思い込んで突撃し、回っている羽に飛ばされて返り討ちにあった逸話などは知っている人も多いのではないのだろうか。その他にも彼は、隣村に住んでいる4回程度しかチラ見したことのない農家の娘を勝手にドゥルシネーア姫と呼んで、己の騎士道物語のヒロインに仕立て上げたり、宿屋に泊まれば「本の中で騎士たちがお金を払っているところなど見たことがない」と宿泊代を踏み倒したり、通りがかった床屋の持っている金盥を伝説の兜だと思い込み、床屋を襲ってそれを奪い取ったり、囚人を移送中の一団に遭遇すれば、自由を奪われた哀れな人々を解放するための戦いを挑むというめちゃくちゃなことをする。騎士というよりもはや追いはぎか強盗かなにかのようだ。そうしてしかけた英雄的戦いの数々は、大体の場合は失敗に終わり、お供のサンチョともども散々に打ちのめされてひどい目に遭うというオチが待っている。しかしどれだけひどい目に遭っても、自分が最強の騎士だと信じて疑わないドン・キホーテは、自分に都合の悪い事が起きるとそれを全て悪い魔法使いのせいにするのである。

 私が特に気に入っているのは、彼の初めての冒険の帰り道に起きた一幕。ドン・キホーテが長旅のための道具を揃えに村に戻ろうとする最中、木に縛り付けられた少年と、それを鞭打つ農夫の二人組を目にした。その光景に騎士道的な冒険を感じずにはいられなかったドン・キホーテはさっそく駆け寄った。

「不埒な騎士め!身を守ることもできないものを痛めつけるなんて許せん!槍を構えて勝負しろ! どれだけ卑劣なことをしているか思い知らせてやる!」

 この時点でドン・キホーテは、相手が農夫ではなく弱い者いじめをしている騎士だと思い込んでいるのである。既にばかばかしいが話を続けよう。

 さて、いきなり現れた鎧をまとった男に槍を突き付けられた農夫は慌てて弁解する。彼の語るところによると、この少年に羊の番をさせていたのだが、毎日必ず羊を一頭見失ってくる。それを注意すると、農夫が給料をきちんと払わないからだというのだがこれは真っ赤な嘘であり、だからこうして痛めつけているらしい。

「なに嘘?拙者の前で他人の嘘を暴きたてるというのか、このさもしい田舎者め!つべこべ言わずに払ってやれ!さもないとこの槍で打ち倒すぞ!」

 いやこれもうどうすればいいのか・・・

 とにかくこの男、人の話を聴かない。というよりも、騎士道物語に影響されすぎて、どんな事情があれ、いじめられている物は助けなくてはならないという考えにとらわれているのである。恐れをなした農夫は少年を解放し、給料をきちんと支払うことを約束する。それを聴いたドン・キホーテは満足し、もし約束を破ったらすぐに駆け付け、騎士の誓いにかけて厳罰を与えてやるからなと言い残し、その場を去っていく。

 やがてドン・キホーテの背中が見えなくなると、農夫は少年を呼び寄せて言った。

「さあ、こっちにおいで、かわいいぼうや。あの暴虐の掃討者とやらの命令通り、お前に借りを返してやろうじゃないか。」

「そうだよ、そうこなくっちゃ!旦那もあの騎士の言いつけ通りにしなさったほうが身のためだよ。もし旦那が約束を破ったらすぐに引き返してきてくるに違いないからね。」

「わしだってそう思うさ。だがわしはいよいよお前のことがかわいらしくてたまらなくなってきたものだから、お前に対する支払いを増やすために、まず借りの方をうんと増やしてやりたいんだよ。」

 そう言うと農夫は少年を再び縛り付け、先ほどよりも手荒に打ち据えたのである。

 そんなことが起こっているとはつゆ知らず、一方のドン・キホーテは自分の華々しい成果をつぶやきながらドゥルシネーアに想いを馳せていたのだった。

 

 ドン・キホーテの冒険は終始このように誰も幸せになれないめちゃくちゃなものであるが、物語の後半では彼の騎士道に巻き込まれた人々が集まり、素晴らしい人間ドラマが生まれたりなど、ちょっとくらいはいいところもあったりする。そんな素晴らしい一幕においてドン・キホーテ本人は全く蚊帳の外だったのだが・・・。

 

 『ドン・キホーテ』には著者セルバンテスの自伝めいたところもある。セルバンテスはかのレパントの海戦に兵士として参戦して大手柄を挙げたのち、帰国途中に船が襲われ、奴隷として連れていかれてしまうのだが、それとほとんど同じ経歴を持つ男が登場する。また、セルバンテスが身請けされ、念願の帰国を果たすと、時の権力者にレパントの海戦の恩賞を求めるのだが、すげなく却下されてしまう。そうして悲嘆に暮れたセルバンテスは、本来なら得られるはずだった名誉への郷愁として、騎士道物語にあこがれるドン・キホーテを表出したのかもしれない・・・とは巻末の解説からの受け売りだ。『ドン・キホーテ』を読む前に、セルバンテスの一生をさらっと知っておくと、よりこの物語を楽しむことができるかもしれない。

 

 『ドン・キホーテ』前編の好評を受けて、前編発刊から10年後に書き上げた後編では、ドン・キホーテと従士サンチョの伝記(前編の物語)が世に広まり、大人気であるという設定で始まる。そうしてドン・キホーテは再び旅に出るのだが、その旅模様は前編とうって変わって暗く憂鬱なものである。有名になった二人は訪れる先々で人々の嘲笑の的になる。私たちはこの男を笑っていいのだろうか、そう思ってしまうほど人間の闇を感じてしまう。そんな作品になっている・・・らしい。できるだけ早く続きを読んでみたいが、近隣の本屋にはなかなか置いておらず、結局目移りして他の本を買う始末。浅はかな。当時の人たちは10年も待ったんだし、多少時間を空けた方がより10年後という設定になじめるだろうと半ば無理やり納得し、あてもなくふらっと訪れた先での偶然の出会いを期待して、気ままに本屋を遍歴してみようと思う。

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