『銀河鉄道の夜』 宮沢賢治
なんてきれいな言葉を使うんだろう。昔読んだ時には気づかなかった、宮沢賢治の文章の美しさと悲しさ。やっぱり日本語はいい。英語とほんの少しのドイツ語しか知らない私が言うのも問題がありそうだが、こと文語的表現の美しさにおいて日本語に勝る言語はないと考えている。そもそも世界から見ても日本語の語彙は特殊だ。これは個人的な意見だが、ソネットや叙事詩といった口語的韻律に重きを置いた文化が発展したラテン系・ゲルマン系言語圏と、漢詩や短歌など文語的表現力に重きを置いた日本の差によるものではないのだろうか。どうやら余計な話をしすぎたようだ。これ以上私の拙い日本語講座を続けてうんざりさせてしまうよりは、宮沢賢治の描く美しい世界を紹介した方が得策というものだろう。
『銀河鉄道の夜』
主人公のジョバンニは孤独な少年だった。父は遠い海へ漁に出かけたきり戻ってこず、 密漁でつかまったのではないかという噂まで流れ、それがもとでクラスメイトから嫌がらせを受けていた。病気で臥せっている母のため、学校が終わってから働いて小銭を稼ぎ、食べ物を買っていた。カムパネルラは、そんなジョバンニの唯一の味方だった。ある日の夜、ジョバンニが丘で横になっていると不思議な声が聞こえてきた。そして目の前がぱっと明るくなったかと思うと、気が付いた時にはカムパネルラと一緒に天の川を走る列車に乗っていた。列車の窓から見える光景に二人は心を躍らせる。
「そうだ。おや、あの河原は月夜だろうか。」
そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀色の空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波をたてているのでした。
「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云いながら、まるではね上りたいくらいに愉快になって、足をこつこつ鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛を吹きながら一生けん命延びあがって、その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気を付けてみると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとおって、ときどき眼の加減か、ちらちら紫いろのこまかな波をたてたり、虹のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れていき、野原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしくたっていたのです。
列車は二人のほかに多くの乗客を乗せて、青白く輝く天の川をどこまでも走っていく。しかし先へ進むにつれて、乗客は一人、また一人と消えるようにして減っていく。この天の川を走る列車は、死者を天上まで連れていくための列車。乗客は全て、すでに死んでしまった人々なのだった。
ほんとうのさいわい(幸せ)とはなんなのだろうか。物語中様々な人物の口から、この問いが投げかけられる。ジョバンニとカムパネルラに同席した、青年と幼い男の子と女の子の三人組は、空気が凍り付くような 北の海で、乗っていた船が氷山にぶつかって沈没して亡くなってしまったようだった、青年はその時の様子をこう語った。
もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せてくださいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈ってくれました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんかがいて、とても押しのける勇気がなかったのです。
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このまま神のおん前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。けれどもどうして見ているとそれができないのでした。子どもらばかりボートの中へはなしてやってお母さんが狂気のようにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなどとてももう腸もちぎれるようでした。
そのうち船は沈み、せめて浮かんでいられるだけは浮かんでいようと青年は二人を抱きかかえた。そして渦に飲まれ、気が付いた時には列車に乗っていたという。
「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上り下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」
灯台守がなぐさめていました。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためのいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
青年が祈るようにそう答えました。
氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍り付く潮水や、烈しい寒さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている。ぼくはそのひとにほんとうに気の毒でそしてすまないような気がする。ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう
だれかのさいわいのために何ができるか、青年の話を聴いたジョバンニは塞ぎこみ、苦悩した。
やがて列車は青白く輝く大きな十字架がそびえる南十字駅までくると、そこで青年と幼い二人の子をはじめ多くの乗客が降りて行った。座席にはジョバンニとカンパネルラの二人だけが残った。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百っぺん灼いてもかまわない。」
「うん。ぼくだってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
やがてカムパネルラは窓の外に死んだ母の姿を見つけ、消えていく。窓の外に向かって激しく叫び泣いたジョバンニの視界は真っ暗になり、気づけば丘の上に戻っていた。帰り道、カムパネルラと最後にすれ違った橋のそばを通ると人だかりができており、嫌な予感がしたジョバンニは駆け寄っていく。
「ジョバンニ、カムパネルラは川へはいったよ。」
舟から落ちた友だちを助けるために川へ飛び込んだカムパネルラがいつまで経っても上がってこず、見つからないのだという。ジョバンニには、カムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいないような気がした。
なぜカムパネルラは消えたのか。ほんとうのさいわいとはなんなのだろうか。列車の乗客は、生前よりよいことをした人ほど遠く高く天上へと昇っていけるようだった。子どもだけは助けようとしている親を見て、彼らを押しのけることができなかった青年たちは、南十字までの切符をもらえた。嫌がらせをうけているジョバンニの味方をし、舟から落ちた友だちを助けたカムパネルラはその先まで乗っていた。自己犠牲をしたものは救われる、と解釈してしまえばそれまでだが、もっと深い何かがあるように感じる。
天上へと昇ることが救済であり、さいわいである。というのも考え方の一つではあると思う。しかしここで、青年の悩みと、カムパネルラがなぜ消えたのかということについて考えてみたい。青年は悩んでいた。自分の行ったことが正しかったのかどうか。子ども二人だけでも助けてあげた方がよかったのではないか。カムパネルラもまた悩んでいた。「おっかさんは、ぼくをゆるしてくれるだろうか。」友だちを助けるために自ら命を落としてしまった自分を、2年前に既になくなっていた母は果たして受け入れてくれるのかどうか。二人に共通しているのは、自己犠牲への疑問。しかし二人はそれぞれ、青年は灯台守に慰めされ、カムパネルラは自分を優しく迎えてくれる母の姿を見て、救われ、列車を降りて行った。単純な自己犠牲の行動だけではなく、「だれかのさいわいのために自分をささげられることがさいわいである」このことを心から信じられることこそが、さいわいであり、救済である。と宮沢賢治は考えたのではないのだろうか。
ジョバンニは列車の旅を通じて、塞いでいた心を開き、誰かのさいわいのために生きようと決意する。恩寵を得るための自己犠牲ではなく、誰かのためになることが自分のさいわいであると信じること。そう信じて生きていけることこそが幸なのだ。自分さえよければよくて、自分一人だけで生きていけたら幸せだなどと考えている私などにとっては逆立ちしたって出てこない考え方だが、こうやって生きられたらどんなにいいだろうかとうらやましくも思う。この考え方はキリスト教に近い、というよりもほとんどキリスト教の考え方でもあり、「レ・ミゼラブル」では主人公のジャン・バルジャンや、ジャン・バルジャンを救ったミリエル司教がこの生き方を体現しており、同書を読んだ際には彼らの生き方の美しさ、信仰の尊さに胸を打たれた。
およそ10年ぶりにもなる宮沢賢治だが、再読でこれだけ多くの発見があったことに驚いた。また10年20年先、どんな心境で私はこの本を読み返しているのだろうか。その頃には私も、誰かのために生きたいと願っているのだろうか。生きる楽しみが少し増えたような気がする。
本当は他の短編も紹介したかったのだが、思った以上に長くなってしまったので、そちらの紹介はまた今度にしよう。