綿雲のしるべ

思い浮かんだことを置いておく場所。読書感想ブログ

『停電の夜に』ジュンバ・ラヒリ

あの日、ショーバには黙っていようと心に決めた。

まだ彼女を愛していたから。

それだけは知らずにいたいと彼女が願ったことだから。

 

 気まぐれで訪れた本屋でたまたま本書を手に取ったとき、私はふとあの夜のことを思い出した。2011年3月11日。日本中を包んだ不安と恐怖を他所に、私は 一人興奮を覚えていた。物音一つ聞こえない夜。窓の外の景色はまるで空と地面が入れ替わったかのようで、街並みは群青色に溶け、普段は見ることの叶わない幾多の星々が地上に向けてその存在を示していた。真っ暗な階段を降りて居間へ向かうと、なかば燃え尽きたローソクが闇と戦うようにその赤い薄明かりを部屋に投げかけ、くたびれたソファの皮を赤銅色になめしていた。飽きるほどに見慣れていたはずの世界はそこにはなく、全く違う場所で全く違う人生が始まったかのような不思議な気分だった。電気がつかなかったのはほんの数日のことだったが、この夜の光景は今でも強く心に残っていた。

 初めて聴いて感動した音楽も、聴き続けていれば次第に心を揺さぶることはなくなってくる。どんなにつらく苦しいことでも、慣れてしまえば抵抗を感じなくなってきてしまう。使い方によっては人を操ることだってできるほどに、習慣はあらゆる感覚を麻痺させる。一方で、ルーチン化した生活の中で起きた変化は、人の関心を強く惹きつける。時には忘れられていた記憶や、新しい感情を呼び起こすこともある。私が本を読むのは、様々な時代・場所に生きた人の言葉や考え方に触れることで、そうした変化を求めているからかもしれない。

 

・・・

 

 ショーバとシュクマールはかつて仲睦まじい夫婦だった。しかしそんな彼らの幸せは、初めてできた子供の死産によって徐々に狂い始め、今では同じ家に住みながらお互いを避けるような生活を送っていた。そんな二人のもとに毎夜一時間の計画停電の通知が届く。ロウソクの明かりの中で、久しぶりに顔を合わせて一緒の夕食をとる二人。妻のショーバはある提案を持ちかけるーお互いの秘密を打ち明け合おう。

 相手を、あるいは自分自身を裏切ったちょっとした出来事を白状し合う。どういうわけか決まりごとのようになったこの打ち明け話によって、暗闇で身を寄せ合う二人は少しずつ関係を修復していくようだった。

 計画停電最後の夜。その日はどこかショーバの様子が違っていた。やがて彼女は最後の秘密を打ち明ける。

「アパートを探してたんだけど、見つかったのよね」

 今日の帰りがけに、もう契約は済ましてきた。彼女がそう告げたとたん何かが崩れた気がした。今までの夜はこの話のためだったのかもしれない。シュクマールはそう考えた。シュクマールの番になり、彼は自分でも忘れようと努力していた秘密を打ち明ける。

「男の子だったよ」

 子供の性別は生まれてきてからのお楽しみということで決めてあった。死産のことを告げた際、せめて知らずに済んだだけよかったと彼女は言った。しかしシュクマールだけは知っていたのだった。ショーバが寝かされている間、シュクマールは妻が触れることのできなかった我が子を抱き、動くことのないその小さな体を胸にあてていたのだった。

 愛を失った人はこれほどまでに残酷になれるのかと、ただた悲しかった。こんな結末のためにこの打ち明け話を始めたわけではなかったはずだ。お互い心のどこかできっとやり直すきっかけを探していたであろう。思えば2人は相手を気遣うあまりに子供に関することを避け続けてきた。しかし今この時こそ、2人が前に進むために真剣に向き合うべきだった。そしてその機会はもう永遠に失われてしまっただろう。

 かつては拠り所となっていたロウソクの火は、静かに涙を流す2人の間で、ほの暗く揺らめいていた。