綿雲のしるべ

思い浮かんだことを置いておく場所。読書感想ブログ

『日の名残り』カズオ・イシグロ

私は選ばずに、信じたのです。

― 六日目―夜 より 

 

 大人になるとつい考えてしまうことがある。幼いころ、未来が希望に溢れていた日々。自分の価値観を信じ、歩んできたこの道。しかし、あの時もし過ちに気づくことができたならば。違う道を選んだ私の今は、いったいどんな人生を送っていたのだろうか。

 

 スティーブンスはイギリスのお屋敷で長年仕えている執事だ。彼は同じく執事であった父の背中を見て育ち、偉大な執事とは何たるかを学んだ。偉大な執事とは、品格のある執事である。私を捨て、感情を荒げることはせず、仕事に従事する。主人の意見には口を挟まず、偉大な主人の偉大な行いを陰で支えることが全て。そう信じて疑わなかった。

 旅をしながら、彼は過ぎ去った輝かしい日々を懐かしみ、胸は誇らしさに満ちていた。しかし、旅先で出会った人々との会話や、思い出の中の小さな古傷に触れる度、彼の心は次第に迷いを見せていく。果たして自分がやってきたことは本当に正しかったのだろうか。

 

 本書のすばらしさは何よりも物語の展開にあると思う。整然と緩やかに展開する物語は、夕日の鮮やかな茜色が菫色の空に溶けていくように、スティーブンスと読者の心に不安の影が滲んでいく。夕暮れ時の哀愁と、沈む間際の美しく輝く夕日を思わせるような文章は、『日の名残り』と題するにふさわしい。

 

 人生を支えてきた柱が根元から大きな音を立てて倒れた時、人は絶望を覚える。あの時もし違う道を選んでいたら。しかし結局のところ、時計の針を戻すことは叶わない。人は今手にしているものに満足し、感謝して生きていくしかないのだ。それに、過去を全て否定する必要はどこにもない。信じたことのために人生を犠牲にする覚悟で臨んだのならば、それ自体は十分に自分を誇れる理由になる。 

 

 人生こんなはずじゃなかった、時にはそう思いたくなる日もある。しかし過去を悔やんでいても今を変えることはできない。そして、今を変えることができるのは自分だけなのだ。『タタール人の砂漠』のジョバンニは、過ちに気づきつつも行動を改めることをせず、劇的な何かが自分の人生を変えてくれることを盲目的に待ち続け、悲惨な人生の幕を閉じた。大事なのは、これから何ができるのかだと思う。今自分にできることを精一杯。そうしてまた間違えて、立ち上がって、人生とはきっとその繰り返しなんだろう。