綿雲のしるべ

思い浮かんだことを置いておく場所。読書感想ブログ

『人間の土地』サン=テグジュペリ

愛するということは、おたがいに顔を見合うことではなくて、一緒に同じ方向を見ることだ 

8章 人間 

 小さいころから人付き合いは得意な方だった。友人は多かったし、新しい環境に移ったとしてもすぐにまた新しい友人ができた。 それなりに充実していたし、それなりに幸福だった。

 一方で私は人間関係に淡白だった。学年が変わると新しいノートを用意するように、環境が変わるたびに私は私を白紙に戻した。あんなにまで仲が良かった友人たち、ともに助け合い、競い合い、笑い合い、かけがえのないはずであった日々が輝きを失い、私の世界から薄れ、消えていくことに何の抵抗もなかった。一歩一歩大人になるたびに、昨日までの友人と砂浜で一緒に築いたお城が新たに打ち寄せる波に崩され、記憶の彼方に流されゆくのを、振り返りもせずにまかせていた。

 大人になった今、私は他人の人生にかかわる仕事をしている。見ず知らずの人の人生に上がり込み、信用を得て、数百万数千万のお金を受け取る。そんな仕事を続けているうちに、私のことを必要としてくれる人も増えた。私を中心に大小様々な歯車が回っている。その数が増えるたびに歯車は重く、軋んでいった。私に寄せられる信頼、責任の重さに私は耐えられなくなった。私は彼ら全員の人生と自分の人生を結び付けられるほどには誠実になり切れず、かといって彼らを騙し欺けるほどには詐欺師になりきることもできなかった。

 思えば私は昔から、責任を負うことを恐れていたのかもしれない。私はいつだってこの手で抱えきれるほどの世界しか持とうとしなかった。違う道を歩み始めた友人の人生を巻き込んで生きていく力が私にはなかった。赤の他人の人生に自分を結び付ける勇気がなかった。責任の重さを学ぶと同時に私は私の世界を閉じていった。私の世界は軽くなった。しかし軽くなると同時に、私の世界は不安定になっていった。

 

 

 人はみな、成功しなさいと教えられる。いい大学に入って、いい会社に就いて、いい家庭を持って―成功こそが人生の意味であり、立派な人間になるための指針であるかのように。私もまたそれを信じていた。たくさん努力していい大学に入った。成功のレールに乗ればいつかは違った景色が見えてくると思い込んでいた。だが、いつまで経っても世界は変わらず、空しいままだった。当然だろう、レールがあったとしても、そのレールを支える大地がそこにはないのだから。

 生き方を学ぶ機会はたくさんある一方で、生きることを諦める人が後を絶たない。どう生きるかという教えは必ずしも人を明るみへと導かない。なぜ生きるのか、その答えの中にこそ人生の意味がある。

 

 

 サン=テグジュペリサハラ砂漠の西の海岸にある空港でバークという男に出会った。彼はもともとマラケシュという街で暮らしていたのだが、ある日騙されてつかまり、以来長年この地で奴隷として主人に仕えていた。マラケシュに帰ることを望み続けた彼は、サン=テグジュペリらの協力のおかげでついに奴隷の身分から解放され、故郷に帰還する。新しい生活を始めるに十分な資金も与えられた。彼の人生が始まるはずであった。ところが彼は手持ちの資金を全て街の子どもたちのプレゼントに使い果たしてしまった。喜びのあまり気でも狂ったのか。いや、そうではない。彼はただ、自分の重さを感じたかったのだ。

 彼は自由だった。しかしその自由が彼にはほろ苦かった。その自由は彼に教えた。彼という存在がいかに世界と無関係であるかを。街のレストランのボーイも、踊り子も、彼に親切にしてくれた。だがそれは仕事としての立場がそうさせるのであって、誰一人として彼という人間を必要としてくれるものはいなかった。そんな時、偶然出会ったひ弱そうな子供がバークを変えた。バークは広場に集まった全員の子どもに上等な靴を履かせてやった。子どもたちの神様となった彼には、おびただしいまでの希望の重量が覆いかぶさっていた。

 

 必要とし、必要とされること。他人と自分を結びつけ、ある重量を持った存在となること。その重さこそが人間を世界に結び付ける。サン=テグジュペリの同僚ギヨメが真冬のアンデス山脈に墜落した時、彼は飢えと戦い、極寒と戦い、心臓を鼓舞し続け、絶望の淵から生還を果たした。水も食料もほとんど空の状態でサハラ砂漠の真ん中に不時着したサン=テグジュペリもまた、生きることを諦めなかった。極限状態の彼らを支えたのは責任だった。彼らを必要としている人々、彼らの帰りを待つ人々のために生きるという責任だった。

彼の偉大さは、自分に責任を感ずるところにある、自分に対する、郵便物に対する、待っている僚友たちに対する責任、彼はその手中に彼らの歓喜も、彼らの悲嘆も握っていた。

2章 僚友 

 

沈黙の一秒一秒が、僕の愛する人々を、少しずつ虐殺していく。激しい憤怒が、ぼくの中に動き出す、何だというので、沈みかけている人々を助けに、まにあううちに駆け付ける邪魔をする様々の鎖が、こうまであるのか?なぜぼくらの焚火が、ぼくらの叫びを、世界の果てまで伝えてくれないのか?我慢しろ・・・・・・ぼくらが駆け付けてやる!・・・・・・ぼくらのほうから駆け付けてやる!ぼくらこそは救援隊だ!

7章 砂漠のまん中で 

  わずかの希望も見出しえない砂漠のまん中に取り残されたサン=テグジュペリは、救助される側ではなく、自分の行方が分からず悲しむ人々を救助する側であった。これほど壮絶な絶叫を私は聞いたことがない。

 

 重さ、それはつまり責任だ。自分という存在が誰かにとって、世界にとって必要なこと。時に押しつぶされそうなほどの重さを背負い込みながらも、自分を結び付けた人と同じ方向を向いて歩き続けること。それこそが生きる意味だ。

人間であるということは、とりもなおさず責任を持つことだ。人間であるということは、自分には関係のないと思われるような出来事に対して忸怩たることだ。人間であるということは、自分の僚友が勝ち得た勝利を誇りとすることだ。人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。

3章 僚友

 

 この年になると、同級生たちの結婚の噂をよく耳にする。うまくいっている人、別れてしまった人、いろいろだ。中には昔は荒れてたのに結婚したら真面目になった人もいる。きっとその人は見つけたのだろう。自分を必要とする世界と、自分自身の重さを。一方で結婚してもなかなかうまくいかない人もいる。きっとその人は気づいていない、いや、逃げているのかもしれない。自分にのしかかるその重さから。

 

 人生の豊かさは、物質的な豊かさでは賄いえない。人生の喜びと、人生の「成功」は必ずしも結び付きえない。

真の贅沢というものは、ただ一つしかない。それは人間関係の贅沢だ。

3章 僚友

 重さを手放してきた私はいつまで経っても満たされることはなかった。打ち寄せる波は、砂の城もろとも世界から私を削り取っていった。今の私に残されているのはわずかな繋がりだけしかない。けれど漸く私は満足することができた。そうだ、私は私を繋ぎとめる重さに気づくことができたのだから。

たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる

8章 人間

 私は私の責任を果たそう。そして、居場所を求めてもがく人に手を伸ばそう。同じ方向を向いて、お互いの重さを感じながら。

 

 

精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる

8章 人間 

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『氷』アンナ・カヴァン

 灰色の空。荒廃し、崩れ落ちた砦の瓦礫。捨てられた町、立ち並ぶ木々の黒い影。降り積もる白い雪。そんなモノクロの景色の中に異様な存在感をもってそびえる巨大な氷の壁。それがなぜ、何のために現れたのかは一切不明だが、氷は徐々に拡大し世界を飲み込んでいっている。どうやら世界は終末に向かって進み始めているようだ。

 迫りくる氷壁の輪の中心には氷のように透き通ったアルビノの少女。その少女を挟んで2人の男がにらみ合う。名も無い彼らの三角関係にはフランス文学のような情熱的な恋愛劇は存在しない。彼らはもはや呪いにも似た感情で互いを愛し、苦しめあう。

 歪んだ世界の歪んだ者たち。この物語に正常な物事は何一つ存在しない。中でも主人公である「男」はぶっちぎりでいかれている。彼は世界の終末などお構いなしに、海を越え、国境を越え、地の果てまで少女を追い求める。その執着心は尋常ではなく、戦争に参加したり、恐喝めいたことも平気で行う。彼はなにがあっても恐ろしいくらいに冷静で、人としての感情が欠落してしまっているかのように見えるが、唯一少女が苦しんでいる姿を目にしたときに激しく動揺する。それは何も少女がかわいそうだからというのではない。彼は自分以外の何者かによって少女が苦しめられることが耐えられないのだ。

この腕を愛情を込めて折るのは私でなくてはならなかった。私だけがこのような傷を負わせる資格を持っているのだ。 

 四方を囲む巨大な氷の壁が光を乱反射し、得体のしれない幻像を映し出すかのように、読者は場所も時系列もてんでバラバラな景色の中に放り出される。男によって語られるこの世界では、族の襲撃を受け略奪の限りを受けた村が一夜にして何事もなかったかのように元通りになっていたり、少女は何度も無残な方法で殺されるが、次のページでは生き返っている。まるで男が見たい、というよりも見せたい光景がそこに描かれているように感じた。

 近づいては離れていく少女を男は追い続ける。その途中、少女の手掛かりを失い帰国した男は、警察につかまり裁判にかけられる。少女の失踪事件の証人として呼ばれたようだが、どうにも様子がおかしい。裁判で述べられてる事実と男の証言があまりに矛盾しているようなのである。結局男は精神異常者として釈放されることになるのだが、この辺りからただでさえ謎であった出来事の何もかもがさらに疑わしくなってくる。なにせ男の一人称によって語られるこの物語では、読者はこの男を通してしか世界を知ることができないからだ。精神異常者のこの男を。

 

 街も、人も、心も、なにもかもが凍り付いた世界で、支配欲と嫉妬に駆られ、少女を求める衝動だけが男を突き動かす。やっとたどり着いた先で少女が自分を受け入れないと知れば、激高し、少女を無理やり支配しようとする。少女もまた人との繋がりを渇望し、自分のために働いてくれる男そっちのけで他の男と関係を持ったり、わがままで男を振り回す。誰もが一方的で自分勝手な考えしか持ち合わせていない。醜いこと極まりないが、それでいてなぜか美しい。不思議な感覚を覚える。

 

 

 余談だが、著者のアンナもまた、精神病に苦しみヘロインを常用していた。何度も自殺を図り、1968年に自宅で死んでいるのを確認されたとき、傍らにはヘロインの入った注射器が置かれていた。『氷』はその前年に刊行された小説である。そこになにか関連性があるのかどうかは私の知る限りではないが、アンナもまた、自身に迫る逃れようのない終末を悟り、孤独の不安に苦しみあえいでいたのかもしれない。

『夜間飛行』サン=テグジュペリ

あの農夫たちは、自分たちのランプは、その貧しいテーブルを照らすだけだと思っている。だが、彼らから八十キロメートルも隔たった所で、人は早くもこの灯火の呼びかけを心に感受しているのである。あたかも彼らが無人島をめぐる海の前に立って、それを絶望的に振ってでもいるかのように。 

 

 いろいろな本を読んでいると、時に自分がその中に沈み込んで行くような錯覚に陥ることがある。海底に垂らした一本の綱を頼りに、暗い海の底へ潜っていくように、深く深く沈んでいく。言葉の一つ一つが色彩を帯びた大小の泡となり、脳裏に浮かんでは弾けていく。静かで濃密な時間。こういう本を読むときは、なるたけ落ち着いて集中できる場所でなくてはいけない。さもなくば、その目はモノクロの文字の羅列をただ滑っていくだけだろう。『夜間飛行』はそんな作品の一つだ。

 

 今では飛行機が当たり前のように空を飛んでいるが、その背後には数々の英雄的な冒険があり、犠牲と挑戦の上に築き上げられてきた人間の尊厳の歴史があった。

 20世紀初頭、人類は初めて空を飛んだ。その後数々の研究・実験が繰り返され、第一次大戦期において漸く実用化にまで至ったが、人類にとって、空は変わらず神秘の世界であった。ましてやそれが光のない、夜の中だとしたら。

 リヴィエールと彼と志を共にする操縦士や技術者たちはこの神秘に挑んだ。当時はまだ気象観測台等の整備も進んでおらず、無謀ともいえる挑戦に世間では反対の声が多く上がったが、リヴィエールは主張を押し通した。挑戦の過程にいかなる犠牲が伴うとも、その結果が個人の幸福を超えた所にある何かにつながると信じて。

 

 わずかの同意と多くの非難を受けながら、孤独な戦いを続けるリヴィエールは厳格な上司だった。怠慢や不祥事は、たとえその原因が不可抗力的なものであったとしても、みな一様に厳罰に処した。二十年間協力し続けてきてくれた職工をただの一度の過誤で免職し、一操縦士と親しい交際をしていた監督ロビノーを叱責し、ロビノーに自らその操縦士を罰する報告書を書かせた。

ロビノー。部下を愛したまえ。ただそれと彼らに知らさずに愛したまえ

 一見冷酷に見える彼も、内心は一際深い愛情を持った人だった。しかし彼の立場が、彼らの追い求めるものがそれを許さなかった。彼の良心は、人間の尊厳と個人の幸福の間で揺れ動き、彼を苦しめる。操縦士たちには、操縦士たちの家庭があり、生活があり、幸福がある。リヴィエールはそんな彼らを危険な―時には二度と帰ることはできない闇の中へ送りだしていく。自分のしていることは間違っているのではないか。

自分は何者の名において、彼らをその個人的な幸福から奪い取ってきたのか?根本の法則は、まさにその種の幸福を保護すべきではないのか?それなのに、自分はそれを破壊しているのだ。 

  しかしリヴィエールは決して行動を止めようとはしなかった。個人的な幸福を超えた、永続性のある救われるべきなにかが人生にあり、そのために働いていると信じたから。もしそうでないとしたら、彼の行動の説明はつかなくなってしまう。彼は人類の発展のために、そして何より自分の非道な行動の説明をつけるために、厳格であり続けた。そして技術者たちもそんな彼に付き従った。

 

 街中で見上げる街灯も、彼方の街並みに光る街灯も同じ光なのにも関わらず、私が後者により心惹かれるのは、そこに孤独の美しさを感じるからのように思う。遠い空の下で揺らめく幽かな光は、己が誰のために、何のためにあるのかもわからず、闇夜を彷徨う孤独な光だ。影に包まれた夜空、地上に光る星々は、その輝きがどこまで遠くを照らすのかをきっと知らないだろう。一方で、そうした夜の紺青に放り出された光に、己を苛む良心と戦い続けるリヴィエールは救いを求め、死が間近で恐ろしい口を開いて待ち構えている闇の中で操縦士は希望を求めた。

 

 人は誰しも心のどこかに孤独を抱えている。しかし、他の人が目もくれず通り過ぎてしまうような事柄に心を寄せることができる、自分だけはその素晴らしさに気づくことができる、そんな孤独を私は美しいと思う。たとえ誰からも理解を得られないとしても、私は私の信じたものを、それを信じた私自身を誇りに思い、歩み続けよう。いつの日か、私が残した光が、孤独な誰かの行く先を照らすしるべとなりますように。

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『日の名残り』カズオ・イシグロ

私は選ばずに、信じたのです。

― 六日目―夜 より 

 

 大人になるとつい考えてしまうことがある。幼いころ、未来が希望に溢れていた日々。自分の価値観を信じ、歩んできたこの道。しかし、あの時もし過ちに気づくことができたならば。違う道を選んだ私の今は、いったいどんな人生を送っていたのだろうか。

 

 スティーブンスはイギリスのお屋敷で長年仕えている執事だ。彼は同じく執事であった父の背中を見て育ち、偉大な執事とは何たるかを学んだ。偉大な執事とは、品格のある執事である。私を捨て、感情を荒げることはせず、仕事に従事する。主人の意見には口を挟まず、偉大な主人の偉大な行いを陰で支えることが全て。そう信じて疑わなかった。

 旅をしながら、彼は過ぎ去った輝かしい日々を懐かしみ、胸は誇らしさに満ちていた。しかし、旅先で出会った人々との会話や、思い出の中の小さな古傷に触れる度、彼の心は次第に迷いを見せていく。果たして自分がやってきたことは本当に正しかったのだろうか。

 

 本書のすばらしさは何よりも物語の展開にあると思う。整然と緩やかに展開する物語は、夕日の鮮やかな茜色が菫色の空に溶けていくように、スティーブンスと読者の心に不安の影が滲んでいく。夕暮れ時の哀愁と、沈む間際の美しく輝く夕日を思わせるような文章は、『日の名残り』と題するにふさわしい。

 

 人生を支えてきた柱が根元から大きな音を立てて倒れた時、人は絶望を覚える。あの時もし違う道を選んでいたら。しかし結局のところ、時計の針を戻すことは叶わない。人は今手にしているものに満足し、感謝して生きていくしかないのだ。それに、過去を全て否定する必要はどこにもない。信じたことのために人生を犠牲にする覚悟で臨んだのならば、それ自体は十分に自分を誇れる理由になる。 

 

 人生こんなはずじゃなかった、時にはそう思いたくなる日もある。しかし過去を悔やんでいても今を変えることはできない。そして、今を変えることができるのは自分だけなのだ。『タタール人の砂漠』のジョバンニは、過ちに気づきつつも行動を改めることをせず、劇的な何かが自分の人生を変えてくれることを盲目的に待ち続け、悲惨な人生の幕を閉じた。大事なのは、これから何ができるのかだと思う。今自分にできることを精一杯。そうしてまた間違えて、立ち上がって、人生とはきっとその繰り返しなんだろう。

 

『ハムレット』シェイクスピア

この世の関節が外れてしまったのだ。なんの因果か、それを治す役目を押し付けられるとは!

― 第一幕 第五場 より

 

 数あるシェイクスピアの作品の中でも、『ハムレット』の名を聞いたことのない人はいないのではないだろうか。本書は復讐を一つのテーマとして描いた作品であり、最終的には主要な登場人物の全てが殺されてしまう。そんな悲劇的な作品がなぜ古今を通じて多くの文人に愛され続けていたのか。それは、本書の主人公ハムレットの人物像にある。

 

 デンマーク王子ハムレットは悩める青年である。敬愛していた父が死に、悲しみに暮れていたハムレットは、そのわずか2か月後に再婚した母ガートルードと、その夫となりデンマーク国王の座に就いた叔父クローディアスに対しやりきれない思いを抱いていた。そんなある日、彼は父の死の真相―叔父クローディアスによる殺人―を知ってしまう。復讐を誓う彼だが、その心は耐え難い苦悩にさいなまれる。現王である叔父を手にかけることは容易ではない。運よく復讐を果たすことができたとしても、国王殺しの反逆者として罪に問われ、処刑されることは確実であろう。そこでかの有名なセリフが登場する。

生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ

to be or not to be, that is the question 

―第三幕 第一場 より

  叔父の大罪を見て見ぬふりをし、このまま安穏と暮らしてさえいれば将来の国王の座は保証されている。しかしその屈辱に耐え続けることはできるのか。それならばいっそ事を為し、自ら命を絶つべきか。しかし死んで、永遠の眠りについて―その後は。悩める青年ハムレットが生の苦悩と死への恐れを独白するこの一幕は、人類共通の命題を問いかける作中屈指の名場面だ。

 

 ハムレットは内省的だが、誇り高い青年だ。己の在り方について常に自分自身に問いかけながらも、亡き父の復讐を果たすと強く心に誓う。ある時、彼は怨敵クローディアスがたった一人で祭壇に祈っている場に遭遇した。阻むものは誰もいない、絶好の復讐の機会である。しかし彼はその場を立ち去ってしまう。父は祈る間もなく、生前の罪を清める間もなく殺された。今ここでその罪を神に懺悔している叔父を殺したとしてどうなるだろうか。罪を洗い清め、死ぬ準備ができている仇を討ったとして果たしてそれは復讐となるのだろうか。彼の誇りはそれを許さなかった。俗世間の悪行にふけり、原罪に手を染めている時にこそ怨敵を討ち果たし、その魂を地獄に落とすことを求めたのだった。

 

 彼は叔父だけでなく、父を裏切り、わずか2か月にして叔父と再婚した母をも強く恨んだ。ある日部屋に呼ばれたハムレットは、母ガートルードを散々に皮肉った。

ハムレット なるほど、 この堕落しきった世の中では、美徳が悪徳の許しを乞い、あまつさえ、辞を低うしてその顔色をうかがいながら、事をなさねばならぬらしい。

妃 おお、ハムレット、お前は、この胸を真二つに裂いてしまった

ハムレット おお、それなら、その穢いほうを捨てて、残ったきれいなほうで、清く生きてくださいますよう。

習慣という怪物は、どのような悪事にもたちまち人を無感覚にしてしまうが、半面それは天使の役割もする。始終、良い行いをなさるようにお心がけになれば、はじめは慣れぬ 借着も、いつかは身についた普段着同様、おいおいお肌に慣れてくるものです。今宵一夜をおつつしみなさい。

  しかしこの時ハムレットは、部屋に隠れて監視をしていた宰相ポローニアスを、クローディアスと勘違いして殺害してしまう。ポローニアスの死に、その娘でありハムレットの恋人でもあったオフィーリアは狂い死んでしまう。そしてハムレットは、友人でありポローニアスの息子でもあったレイアーティーズと、復讐に感づいた叔父クローディアスから命を狙われることとなった。

 レイアーティーズとクローディアスは一計を案じ、剣の試合で事故に見せかけてハムレットを殺害する計画を立てる。レイアーティーズは毒を塗った剣を使用し、万が一ハムレットに傷を負わすことができなくとも、毒入りの飲み物を差し入れするという手の込みようだ。しかし、これがあだとなってしまった。毒入りとは知らず、ガートルードはその恐ろしい水を飲み、命を落としてしまう。そしてレイアーティーズは、隙をついてハムレットに切りつけるも、不正が行われていることに気が付いたハムレットはその剣を奪い取り、レイアーティーズを刺殺した上、そのまま叔父クローディアスに剣を突き立て、ついに復讐を果たす。しかし、切りつけられたハムレットにも毒が回り、ついに彼にも死の運命は訪れた。彼は死の直前、一部始終を見届けた友ホレイショーに、デンマークの王座をノルウェイ王子フォーティンブラスに託すといい残した。フォーティンブラスの父は、生前のハムレットの父との一騎打ちの勝負で殺されており、フォーティンブラスはその復讐のために隠密で募兵をしていたのだが、クローディアに察知されて計画をつぶされてしまっていたのだった。復讐が復讐を呼んだ凄惨な現場に、遠征帰りに通りかかったフォーティンブラスが立ち寄ると、ホレイショーは事の委細を伝える。かくして全ての復讐はここに収束したのであった。

 

 復讐には終わりがない。どこかで誰かがその屈辱に耐えなければならない。あるいは、関わるもの全てを消し去るか。一人取り残されたハムレットの親友ホレイショーはこの後どう生きるのだろうか。そしてもし私がハムレットであったらどうしていたであろうか。4大悲劇の名にふさわしい壮絶な物語だった。

『オデュッセイア』ホメロス

「犬どもめが、貴様らはもはや、わしがトロイエの国から、帰らぬものと思ったのであろう。 その証拠には、わしの屋敷を散々に荒らし、召使の女たちに共寝を強い、わしが生きているというのにこそこそと妻に言い寄ったではないか。まことに広き天空を治め給う神々を恐れぬばかりか、後々に受くべき世の人の非難をも憚らぬ所業じゃ。今や貴様らすべてに、破滅の網は結え付けられているのだぞ。」

―第二十二歌 求婚者誅殺 より

オデュッセウスの漂泊、復讐劇

 トロイア戦争終結後、ギリシアの戦士たちは各々の国へと帰還した。しかし、ただ一人オデュッセウスだけが、神の不興を買い、部下も船もすべて失って孤島に取り残されていた。長い漂泊の末、彼は神々の助けを得て20年ぶりの祖国へ帰還する。彼の辛苦を極めた旅路は多くの人に語り継がれ、いつしかオデュッセウスという名はその人物を離れ、苦難に満ちた冒険を示す言葉となった。火星に取り残された宇宙飛行士を描いた映画『オデッセイ』では如実にオデュッセイアとの対応が見られ、ジェイムス・ジョイスの巨編『ユリシーズ』の題はオデュッセウスラテン語変化形であるといったように、その影響は現代にも残っている。

 

 同じくトロイア戦争を描いた―それぞれが同じ作者によるものなのかは疑問視されているのだが―『イリアス』に比べ、『オデュッセイア』は物語としての完成度が高く、格段に読みやすいしおもしろい。『イリアス』がギリシアの戦士たちの生き様を描いた大英雄叙事詩というのなら、『オデュッセイア』はさながらオデュッセウス一家の絆を描いた大冒険復讐劇といったところだろうか。

 

 オデュッセウスが流れ着いた先で歓待を受けた島の民に語る冒険譚には、人食いの一つ目巨人キュクロプスや美しい歌声で船乗りをかどわかすセイレンなど現代でもおなじみの神話上の妖異、怪物が多数登場する。こういった逸話が好きな人にとってはたまらないだろう。そしてオデュッセウス不在の屋敷を守る息子、テレマコスの成長物語。屋敷では主の不在をいいことに妻ペネロペイアへ50人を超える求婚者が押しかけ、毎晩宴会を開いては屋敷の家畜や酒をむさぼり食らっている有様だった。そうした光景に業を煮やしたテレマコスは、父の消息を求めてトロイア戦争に参戦した英雄たちのもとへ旅に出る。始めは頼りなかったテレマコスだったが旅の中で大きく成長し、スパルタ王メネラオスからも栄誉を授けられるほどになった。そうして立派になったテレマコスオデュッセウスはついに対面し、再開を喜び合い、不埒な求婚者どもを懲らしめる計画を立てる。身分を隠し、乞食として屋敷に入り込んだオデュッセウスは、求婚者たちの侮辱を耐え忍びながら密かに計略をめぐらす。機が熟したころ、ついに無礼な求婚者たちを一同に集め、報復を仕掛ける。その傍らでは頼もしく成長したテレマコスも共に戦った。事がなった後、オデュッセウスは妻ペネロペイアに正体を明かし、20年ぶりの再会を果たす。父としてのオデュッセウスの頼もしさ、テレマコスの成長ぶり、夫を待ち続けたペネロペイアの貞淑さ。彼らの親子・夫婦の絆に胸が熱くなった。

 

 古代ギリシアでは、『イリアス』・『オデュッセイア』を知っていることが教養ある市民としての資格だったそうだ。2千年以上の時を経て現代に受け継がれてきた物語を辿る旅に、出かけてみてはいかがだろうか。

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『イリアス』ホメロス

人間臭い神様たち

 神という存在には何やら神聖で崇高な印象がある。しかし、ゼウスをはじめとする古代ギリシャの神々は、そうした私たちの畏敬の念を根こそぎ薙ぎ払っていく。彼らはわがままで、尊大だ。すぐムキになってなってケンカを始めたり、人間の態度が気に食わないとひどい目に合わせたり、気に入った人間を見つけると節操なく交わってはぽこぽこ子を産んでいく。『イリアス』の舞台となったトロイア戦争の発端も女神たちの醜い争いによるもので、巻き込まれた戦争の当事者たちにとってはたまったものではない(気になった人は「パリスの審判」で調べてみて)。それでもギリシャの神々が憎めないのは、彼らが実に人間臭く、生き生きとしているからだ。全能のゼウスは、「わしは神々の中で一番偉くて一番強い。だからわしの決定は絶対だ。逆らってもいいけどどうなるかわかるよね」なガキ大将みたいなやつだし、大地の神ポセイドンは「俺と同格のくせに偉そうに!」とゼウスに反抗しようとし、ゼウスの妻ヘラはポセイドンに味方して色仕掛けでゼウスを騙したりする。その結果、ギリシャの戦士たちが凄惨な戦闘を行ってる横で、ゼウスとヘラが夫婦喧嘩を始める始末。ろくでもない神様たちだがみんないいキャラをしていて、彼らのやり取りを見ているとにやりとしてしまう。ギリシャの神々がゲームや創作作品のキャラクターとしてしばしば用いられるのは、こうしたキャラ立ちのおかげもあるような気がする。

 

 さて、本の紹介に移ろう。

 『イリアス』はトロイア戦争の一期間を題材とした大英雄叙事詩だ。ヘクトルアキレウスアガメムノン・メネラオス・アイアス・オデュッセウスなど名だたる英雄が多数登場し、血みどろの戦いを繰り広げる。前半は各陣営の紹介などが続きいささか躍動感に欠けるが、いざ戦闘が始まると手に汗握る展開の連続。特に下巻に入り、アキレウスが戦場に合流して神々までもが戦闘に加わると、一層激しさを増していく。そうした激しい戦いの中で輝く英雄たちの生き様や彼らの騎士道精神。彼らギリシアの戦士たちが恐れていることは、戦場で命を失うことよりもむしろ、名誉を損なうことであった。討たれた友のために死地へと赴くアキレウス、圧倒的な戦力を誇るギリシア連合軍に対し、数で劣るトロイア勢を自らの戦いぶりで鼓舞し、アキレウス不在のギリシア連合を実質たった一人で壊滅寸前へと追い込むヘクトル、勢いづくトロイア勢にもしり込みせず、最前線で食い止めるアイアスらギリシア連合の猛将たち。これぞ戦う男の生き様!というものを見せつけられた。

 

 『イリアス』は誇りのために戦う男たちとわがままな神々の群像劇であり、誰もが主人公だ。そのうちの誰に心を寄せたかによって、それぞれ違う感想が聞けるように思う。機会があれば『イリアス』を読んだ人で集まって語ったりしてみたい。

 ちなみに私はヘクトル推しです。

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