綿雲のしるべ

思い浮かんだことを置いておく場所。読書感想ブログ

『それから』夏目漱石

彼はただ彼の運命に対してのみ卑怯であった。

第十四章 より 

  人に何かを説明することは難しい。相手の能力や性格、前提として共有できている事柄の程度に応じて、話す順序や使う言葉を選ばなくてはならない。どうしたらわかってもらえるんだろう。あれこれ考えているうちに気づいてしまう。相手が理解するにはどこからどこまでの説明が必要で、理解した相手が果たして納得してくれるかどうか、そうだとしたら、これを説明することで何かが変えられるのかどうかということに。そうして諦めてしまう。自分を理解してもらうよりも、毒にも薬にもならない曖昧な言葉でのらりくらりとやり過ごして、相手に呆れてもらったほうがよっぽど楽だと感じてしまう。代助はそうして世の中の全てから距離を置いた。社会の中で、人の中心にいながら彼は孤立していた。

 明治から昭和にかけて、高い教育を受けながらも、働くことなく遊んで暮らしている高等遊民と呼ばれる人たちがいた。代助もその一人で、実家の仕送りを頼りに暮らしていた。代助にはなんの欲もなかった。なんのために生きるのかということについても無関心だった。そういう意味で、彼はお金に不自由していなかった。『今日に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験を甞めるものか。」職に就かないことに関して、代助は友人に向かってこう答えた。

 代助は決してだらしのない人間というわけではなかった。むしろ人一倍感受性が強く、情に厚い人物だった。しかしそれ故に多くのことに気づいてしまうことが彼の不幸であった。社会のこと、他人の腹の内、そうしたものが鋭く感じ取られる。一度気にかかりだすとどこまでも気にかかってしまう。一方で、そうした自分の愚かさを冷静に観察できるほどの理性もあった。彼は人を愛してはいたが、信じてはいなかった。いつまで経っても結婚しない息子に嘆く父を哀れに思いながらも、父の勧める縁談に政治的なものが絡んでいることを察していた彼は、父の意に沿うようなことはしなかった。

 代助は自身の厭世観を社会の影響によるものだと友人に語るが、本当のところはきっと違う。代助は自分自身に対して誠実ではなかった。真面目に自分と向き合うことをしなかった。理性があり、感じやすい彼は、何が問題になっていて、どうすれば解決できるかもきっと理解はしていた。しかしそれを成すことを諦めていた。誰かから理解されることを諦めた彼の心は地上との結び付きを失い、虚空に漂う。

 

 物語の終盤、それまでずっと何かのために生きることを無意識的に避けていた彼であったが、避けようのない運命が彼の前に立ちはだかる。これまで通り生きるか、己の自然に従い生きるか。前者を選ぶのならば、生涯その遺志に殉ずる覚悟で望まなければならない。後者を選べば、家族、友人、社会の全てを敵に回すことになる。気が狂うほどに悩んだ彼は、後者を選択する。そうして彼は全てから孤立する。

 

 生きることは責任を負うことだ。何もかもを敵に回して、ようやく自分自身に対しての責任を自覚した彼は、どれだけ泥臭かろうともこの先生きていけることだろう。