綿雲のしるべ

思い浮かんだことを置いておく場所。読書感想ブログ

『一九八四年』ジョージ・オーウェル

”ビッグ・ブラザーがあなたを見ている” 

 

 参加者を2つのグループに分け、四角い積み木を3段積み上げては崩し、また積み上げては崩すといったような極めて単純で退屈な課題を与える。そして片方のグループには高額な報酬を与え、もう片方のグループにはわずかな報酬しか与えず、実験終了後それぞれの感想を聞く。すると、高額な報酬を与えたグループの参加者のほとんどが課題はつまらなかったと答えたのに対し、わずかな報酬しか与えられなかったグループでは課題は楽しかったと答えた参加者の割合が高い傾向が見られる。この実験によって示された心の働きは認知的不協和と呼ばれるもので、人は矛盾を認めた時にストレスを感じ、そのストレスを解消するために態度を変える傾向がある。つまらない課題をやらされた挙句、ほんのわずかな報酬しか与えられなかった参加者たちは、この実験は意義のあるものだったんだと意識を変化させることでストレスを軽減させていたのである。現実は時に人の思い込みの力によって変化してしまう。

 

 この現実の変化を意識的に行うことで、都合の悪い現実をすべてなかったことにすることも可能になる。既にある真実を真実と認めながらも、一時的にそれを忘れ、新たにつくられた真実をそこに上書きする。二重思考と呼ぶこの方法によってビッグ・ブラザーは過去を書き換え、現実を支配し、絶対的な権力としてオセアニアに君臨する。ビッグ・ブラザーにとって都合の悪いものは全て書き換えられる。それは雑誌や新聞といった発行物にとどまらず、人々の思考でさえもビッグ・ブラザーは支配する。あらゆる場所は監視・盗聴され、街では思考警察が目を光らせ、異端者を炙り出し、彼らを「蒸発」させる。そうして存在していたはずの物・人は、初めから存在しなかったことになり、人々はそれを知っていながらも、二重思考によって意識的に現実を上書きするのである。

 

 二重思考は本の中だけの話ではない。日常生活においてさえ、人々は無意識のうちにこの二重思考を操っている。ある事件が起きて、初めは加害者とされていた人物を攻撃していた人々が、新しい事実によって加害者が無実だとわかると、被害者とされていた人物や、加害者を攻撃していた中心人物に攻撃対象を変えるということがしばしば見られる。彼らは自分たちも一緒になって攻撃していたという過去を認めていながらもそれを意識的に無視し、自分たちの判断を間違えさせた悪を攻撃するのである。彼らは彼らが操作する現実にいる限り絶対の正義なのだ。

 

 こうしたことは特にネット上で多く見られる。それはネットの匿名性、編集の容易さによるものだろう。

 

 匿名性は責任感を薄弱にする。たとえ間違った発言をしようとも、その発言が自分と結び付くことはない。そしてブログやSNSのつぶやきといったものは簡単に削除・再編集が可能である。誤った過去は消してしまえばいい。注意していれば発言によって自分の現実生活に悪影響を及ぼす危険性はない。インターネット技術の進歩によって人々は誰でも気楽に情報を発信できるようになったが、裏を返せばそれは安全な場所から自分にとって都合のいい現実を世に送り出すことに他ならない。

 

 わからないことはインターネットで検索すればすぐに答えが返ってくる。しかしインターネットに書かれている情報は全て発信者にとって都合のいい情報である。インターネットに限らず、テレビや雑誌、新聞でさえも、発信する情報を選べるという点において誰かの思惑が働いている。現代社会は編集された現実で満ちている。

 検索は便利だ。しかし、それを盲信してはならない。自分の頭で考えること、目の前の現実を疑うことをやめてはならない。

「よく、考えろ。そして、選択しろ。」

 

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【関連書籍?】

『魔王』伊坂幸太郎

「考えろ、考えるんだマクガイバー。」

「ひとりひとりはいい人たちだけれど、集団になると頭のない怪物だ。」

魔王とは、考えることを放棄した群衆なのかもしれない。

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『門』夏目漱石

彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。 

 『三四郎』『それから』に続く漱石前期三部作の最後に当たる作品。主人公は異なるが、『それから』の代助のそれからを描いた物語ともとれる。主人公の宗助は親友であった安井を裏切り、御米と結婚する。全てを敵に回した二人は世を離れ、二人だけの結びつきの中で静かに暮らしていく。二人にとって社会とは生活に必要最低限必要な物品を賄う場所でしかなかった。

 

 この物語では夫婦を脅かす何かが起こりそうでいて、何も起こらない。かつての親友安井と対面することになるかもしれない、そんな局面でさえ結局会うことにはならず、救いを求めて門を叩いた禅寺においても、宗助は何一つ得るもののないまま家に帰ることになる。

 大小さまざまな事件は物語を動かすことはないが、漠然とした不安を後に残していく。それはまさしく夫婦の運命を暗示しているかのようだ。夫婦の家のすぐ裏手には、補強が施されておらずいつ崩れてくるかわからない崖がある。二人の背後には常にこの崖のような漠然とした不安が聳え立ち、二人を脅かす。世を捨てた二人の質素な生活を反映するかのように、崖は秋になっても色づくことはない。そしてこの崖の上に住む家主の坂井は社交的で、たくさんの子に囲まれながら幸せそうな暮らしをしている。宗助とは対照的すぎる人物だが、なぜか彼らは気が合い、宗助が唯一外で交流を持つ人物となる。これはまさしく、坂井という人物が違う運命を歩んだ宗助に他ならないからであろう。

 親友を裏切った宗助夫婦は、どこかに救いを求めることもできない。彼らはいつ崩れてしまうかわからないか細い暮らしの中で、それでも二人寄り添って生きていく。夫婦愛といった俗っぽい表現では言い表せないほど、もはや彼ら二人でいることが一つの生命体であるかのように二人は強く結びつき合っている。罪を背負ってでも生きていくと決めた二人の深い繋がり。彩りのない不安な毎日で、二人一緒にいられる幸福を噛みしめ合う。そうしたくすんだような美しさがこの物語にはあった。

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『それから』夏目漱石

彼はただ彼の運命に対してのみ卑怯であった。

第十四章 より 

  人に何かを説明することは難しい。相手の能力や性格、前提として共有できている事柄の程度に応じて、話す順序や使う言葉を選ばなくてはならない。どうしたらわかってもらえるんだろう。あれこれ考えているうちに気づいてしまう。相手が理解するにはどこからどこまでの説明が必要で、理解した相手が果たして納得してくれるかどうか、そうだとしたら、これを説明することで何かが変えられるのかどうかということに。そうして諦めてしまう。自分を理解してもらうよりも、毒にも薬にもならない曖昧な言葉でのらりくらりとやり過ごして、相手に呆れてもらったほうがよっぽど楽だと感じてしまう。代助はそうして世の中の全てから距離を置いた。社会の中で、人の中心にいながら彼は孤立していた。

 明治から昭和にかけて、高い教育を受けながらも、働くことなく遊んで暮らしている高等遊民と呼ばれる人たちがいた。代助もその一人で、実家の仕送りを頼りに暮らしていた。代助にはなんの欲もなかった。なんのために生きるのかということについても無関心だった。そういう意味で、彼はお金に不自由していなかった。『今日に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験を甞めるものか。」職に就かないことに関して、代助は友人に向かってこう答えた。

 代助は決してだらしのない人間というわけではなかった。むしろ人一倍感受性が強く、情に厚い人物だった。しかしそれ故に多くのことに気づいてしまうことが彼の不幸であった。社会のこと、他人の腹の内、そうしたものが鋭く感じ取られる。一度気にかかりだすとどこまでも気にかかってしまう。一方で、そうした自分の愚かさを冷静に観察できるほどの理性もあった。彼は人を愛してはいたが、信じてはいなかった。いつまで経っても結婚しない息子に嘆く父を哀れに思いながらも、父の勧める縁談に政治的なものが絡んでいることを察していた彼は、父の意に沿うようなことはしなかった。

 代助は自身の厭世観を社会の影響によるものだと友人に語るが、本当のところはきっと違う。代助は自分自身に対して誠実ではなかった。真面目に自分と向き合うことをしなかった。理性があり、感じやすい彼は、何が問題になっていて、どうすれば解決できるかもきっと理解はしていた。しかしそれを成すことを諦めていた。誰かから理解されることを諦めた彼の心は地上との結び付きを失い、虚空に漂う。

 

 物語の終盤、それまでずっと何かのために生きることを無意識的に避けていた彼であったが、避けようのない運命が彼の前に立ちはだかる。これまで通り生きるか、己の自然に従い生きるか。前者を選ぶのならば、生涯その遺志に殉ずる覚悟で望まなければならない。後者を選べば、家族、友人、社会の全てを敵に回すことになる。気が狂うほどに悩んだ彼は、後者を選択する。そうして彼は全てから孤立する。

 

 生きることは責任を負うことだ。何もかもを敵に回して、ようやく自分自身に対しての責任を自覚した彼は、どれだけ泥臭かろうともこの先生きていけることだろう。

『三四郎』夏目漱石

人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ。 

第九章 より 

 

 前期三部作とも呼ばれる夏目漱石初期の作品群の第一作目。『こころ』をはじめ、夏目漱石の作品は後に行けば行くほど人の心の葛藤や孤独を描く難解なものになっていく。そうした工期の作品と比較すると、デビューしたての頃書かれた本作『三四郎』は活字に慣れていない人にとっても読みやすい。物語としてはオーソドックスな学生の青春物語である。進学のために熊本から上京してきた三四郎は、期待外れの学校生活や都会の賑やかさに馴染めずにいた。そんな時に出会った学生の佐々木与次郎に引きずられるような形で様々な経験をしていくことになる。

 三四郎の東京での暮らしは3つの世界に大きく分けられる。一つは悪友(?)与次郎との俗物の世界。もう一つは穴倉のような研究室で光の研究をしている野々村や、大人で思慮深いが、本人には出世欲がまるでない広田先生との文芸の世界。最後に、偶然の出会いから始まった美女美禰子との恋愛の世界。中心となるのは美禰子との話なのだが、私はそれよりも与次郎という人物に興味を持った。

 本書の登場人物のはほとんどみな受動的で、流されるまま安穏と暮らしている。主人公の三四郎はその中でも輪をかけて奥手だ。会ったばかりの女に「あなたはよっぽど度胸の無い方ですね」と言われたり、せっかく美禰子といい感じになれたのに、妙なプライドが働いて、話を合わせることもお世辞の一つも言えない有様で、背中を思いっきりひっぱたいてやりたくなる。そんな中で唯一主体的に働いて、忙しなくあちこち駆け回っているのが与次郎である。

 与次郎はいわゆるお調子者で、広田先生曰く「田の中を流れる浅くて狭い小川」タイプの人物だ。誰かの世話を焼くのが好きなのだが、相手の都合もなにも考えないため、結果的に相手の迷惑になってしまうこともしばしばである。広田先生と祭りに縁日へ行ったときには、急に思い出したかのように松の盆栽を一鉢買いなさいと言いだし、答える間もなく勝手に値切って買ってしまった。そしていざ買ったはいいものの、夏になってみんなが外出してしまう時に、松を部屋にいれたまま雨戸を全て閉めきって出て行ってしまったせいで、せっかくの松が蒸れてダメにしてしまうなど、その考えの浅さに広田先生も呆れ気味である。

 一方で相手に大きな迷惑をかけてしまったことについてはきちんと自分で責任を取るという誠実な一面もある。もっとも、同じようなことを何度も繰り返しているあたり、真に反省しなくてはならないことが何かを本人はわかってなさそうではあるが。ただ、あっけらかんとして潔い与次郎の性格はどこか憎めないことろがあり、何より自分から率先して世界を変えようと働いている与次郎の主体性に私は心惹かれた。

 広田先生が一介の教師として燻っていることに憤る与次郎は、広田先生の素晴らしさを世に広めるために、雑誌に論文を投稿したり、積極的に文化人と交流し、会談の場を主催したりなど、身を粉にして働く。この試みは広田先生へ相談なしに与次郎が勝手に始めたために、後々やっぱり迷惑をかける羽目になってお叱りを受けるのだが・・・

 たとえそれでも、自ら努力して望む変化を成し遂げようとする与次郎の姿勢を批判できる人間は、果たして今の世の中にいるだろうか。やり方は間違っているかもしれないが、与次郎はこうした方がいいと信じたことは何でも、時には周囲の人間も巻き込んで実行してしまう。 一方で、本を閉じて辺りを見渡せば、自分では何もする気がないくせに文句だけは一人前な怠け者ばかり。どこかの誰かが自分に都合のいいように何かを変えてくれることをただ待っているだけで、それが叶わないと知れば適当な相手を見つけて集団となって攻撃を加える。なんの生産性もないどころか、前に進もうと努力する人たちの足を引っ張るばかり。できることなら彼らとは一生関わり合いになりたくない。こうした世間にとにかく辟易していた私にとって、与次郎の主体性は痛快だった。

 与次郎の話ばかりになってしまったけれども、他にも読みどころはたくさんある。前半でも述べたように、物語的にはむしろ美禰子との関係性がメインであり、こちらもこちらで、そういうつもりがなくても勝手に男を惚れさせてしまうような美禰子の才能ともいえる何かなど読んでいて面白い。読みやすい作品なので、夏目漱石入門にいいかもしれない。

『草枕』夏目漱石

智に働けば角が立ち、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。 

 

 今年の夏、私は京都に出かけた。京都といえば古いお寺や神社などが立ち並ぶ古都という印象を描きがちである。実際には近代化が進んでおり、駅前の景色なんて東京や札幌のそれとほとんど変わらない。バスやタクシーが出ては入ってくるロータリー、林立するガラス張りの高層ビル、若者向けのブランドショップ、全国チェーンのカフェ。日課のように目にしているこれらの光景はそれでも私の心を揺さぶった。どこにでもあるような景色の中に、私の生活は存在しなかった。京都という街の中で、私は全くの無関係な第三者だった。ああ、遠くに来たんだなという安心感が、アスファルトを踏みつける靴の底から染み込んできた。

 旅先の風景を美しいと思うのは、その地で旅人は傍観者になることができるからだ。旅人はそこで生産することを考える必要もなければ、人間関係に煩わされることもない。住みにくい人の世から、住みにくい煩わしさを取り除いた、ありのままの世界を感じることができる。『草枕』は、そうした生き方に憧れた夏目漱石のエッセイのように感じられた。

 

 『草枕』は夏目漱石の代表作としてもしばしば挙げられるが、内容としては万人受けするようかものではない。夏目漱石本人でさえも「天地開闢依頼類のない」小説だと述べている。小説といっていいのかさえ怪しい。一般的に小説にはプロットが存在するが、『草枕』にはそれがない。嫁ぎ先の家の会社が倒産して出戻ってきた女と、お金に困った挙句戦争へ出稼ぎに行く元夫など、それだけで小説が書けてしまうような舞台が用意されてはいるのだが、画工である主人公はこれらの物語に全く関わろうとしない。まるで活動写真を見るように、画工は人間ドラマを傍観し続ける。終始「非人情」で描かれる一連の文体は、俳句や詩のような趣がある。

怖いものも只怖いものそのままの姿と見れば詩になる。凄い事も、己を離れて、只単独に凄いのだと思えば画になる。失恋が芸術の題目となるのも全くその通りである。失恋の苦しみを忘れて、そのやさしい所やら、同情の宿るところやら、憂いのこもる所やら、一歩進めて云えば失恋の苦しみその物の溢るる所やらを、単に客観的に眼前に思い浮かべるから文学美術の材料になる。 

 

 「非人情」について、印象に残っている一節がある。主人公の画工は小説も読むのだが、その読み方が変わっている。適当なページを開き、開いたところをいい加減に読むというものである。筋を追わないで読む小説なんて楽しいのかと、問われた画工はこう答えた。

「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならないわけになりましょう」

・・・

「画工だから、小説なんか初から仕舞まで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留しているうちは毎日話をしたい位です。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなると猶面白い。然しいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初めから仕舞まで読む必要があるんです」

  画工は小説の筋や、話し相手の女、那美との付き合いを楽しんでいるのではなく、ただ純粋に言葉や那美の美しさを楽しんでいるのである。画工は別に那美とどうこうなるつもりはさらさらない。人情の世界に踏み込んでしまえば、人の世の煩わしさが押し寄せてくる。生活から離れたところに立っているからこそ、那美の美しさだけを眺めることができる。この考え方が文章全体にも表れており、プロットのない『草枕』はどこから読んでも楽しめるようになっている。よくわからないけれど、なにか美しいものが流れ込んでくるような、そんな不思議な小説である。無論それは漱石の豊かな語彙と、古き良き日本語の美しさによるところが大きいことは言うまでもない。

 

 人の世が住みにくいからといって、「人でなしの国」で生きていくことは難しい。人に生まれたからには、人の世で生きていかなくてはいけない。

越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。」

 

この潔い前向きな諦めが、固く張り詰めた私の精神をほぐしてくれた。本書をはじめ、『吾輩は猫である』など、いい意味でも悪い意味でも衝撃的だった夏目漱石の文学は、当時の文壇からは「余裕派」と揶揄された。しかしそれでも漱石の本は大衆に広く受け入れられ、同時代の作家である尾崎紅葉幸田露伴と比較しても、現代までに圧倒的多くの読者を獲得している。いつの時代だって人々は『草枕』のようなちょっとキザなくらいの余裕を求めているのかもしれない。

 こんなことを話していたら、また旅行に出たくなってきた。次はどこへ行こうか。できるだけ遠く、私がどこにも存在しない場所へ。

 

『山の音』川端康成

 家族って、息苦しい。今の世の中、本当に幸せで明るい家庭というものはあるのだろうか。仕事柄いろんな家庭を見てきたが、一つ屋根の下に暮らしながらもどこか他人然としていて、互いの存在が互いに重圧となっているような、そんな歪な関係ばかりが目についた。

 人はそれぞれ、自分と何かを結び付ける糸を手に持っている。年を重ね、様々な経験を通してその糸の数は増え、複雑に絡まっていく。結び目はどうなっているのか、どうしたらほどけるのか、それは本人にしかわからないし、もしかしたら本人にもわからないかもしれない。そうした諸関係が家庭の中で微妙に交渉しあう。食卓で向き合う家族の中に、だんだんと自分の知らない面が増えてくる。それを探ろうと強引に手を伸ばすと、また違うところで糸が絡まる。なんだかあやとりみたいだな、とふと思った。

 他の糸とは違い、家族という繋がりは容易に断ち切ることはできない。どれだけ相手が憎かろうと、血縁という結びつきは一生付きまとう。日常の些細ないざこざの積み重ね、根本的に異なり、相互理解の叶わない人間性や価値観。拗れに拗れたそれらの糸を断ち切ってしまえるならどれほど楽だろうか。隣の芝生が青く見えたり、よその子がかわいく見えたりするのは、ごちゃごちゃにわだかまった自分から見たその相手がいかにも整然として美しく見えるからではないだろうか。

 

 妻とともに息子夫婦と鎌倉で生活している尾形信吾は、ある日の夜、地鳴りの様に響く山の音を聴いた。低く重くこの山の音は物語の主音として響き続け、暗く悲しい影を投げかける。若き日の恋や息子の不倫と戦争の影、娘の出戻り、複雑な事情が交錯する家庭内で、無邪気な義娘の菊子の存在が信吾にとって安らぎであった。

 

 川端康成は男女間の微妙な距離感の描き方が本当に美しい。信吾はかつて妻である保子の姉を慕っていた。その面影を義娘の菊子に重ねている。菊子もまた、親切で唯一心許せる義父に特別な感情を持っている。2人の間の恋とも呼べない微妙な間柄を表現する言葉の使い方にほれぼれとしてしまう。

 

 川端康成の文章を読んでいると、作品中の音やにおい、温度といったものが肌で感じ取れるようなそんな錯覚を覚える。庭の芝生に染み込む雨の音が聴こえてきそうなほど感覚が鋭敏になるような気がする。これからの季節、庭の秋の虫の声を聴きながら、川端文学を読みふけるのもいいかもしれない。

『ロリータ』ナボコフ

ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。下の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。

第一部冒頭より 

 この変態め!と書き出しからいきなりドン引きさせてくれるこの作品。『ロリータ』を一言でいうならば、圧倒的な表現力をもって少女への情欲を吐き出し続ける腐肉の塊だ。少女への純真すぎる狂信はあまりにおぞましすぎて、嫌悪感を通り越して笑いがこみあげてくる。ニンフェット提案のくだりなんて馬鹿馬鹿しすぎて爆笑ものである。主人公のハンバートは、ニンフェットと呼ぶ少女たちの繊細な背骨や、少し膨らんだお腹や、生毛がうっすらと輝く手足の美しさを見て、己の下腹部がどれだけ熱く滾るかについて息を荒げながら熱弁し、挙句の果てには「この文明では二五歳の男性がつきあう相手として、一六歳の女の子ならかまわなくても、一二歳の女の子はいけないということだ」と、まるで数学の新しい公式を発見したかのような調子で、”クソ”がつくほど真面目に語り始める始末で、私は読んでいて声を上げて笑っていた。

 

ハンバートは下宿先のニンフェットのドロレス(ロリータ)を一目見て欲情し、彼女に合法的に触れるためだけに未亡人だったその母と結婚するというイカレっぷりを見せつけてくる。そしてある時妻が事故で死ぬと、ハンバートはロリータを車に乗せて情欲まみれのアメリカ大陸大旅行などという人権団体に訴えられてもおかしくない大炎上ものの行動に出る。よくも悪くも並外れて優れたナボコフの文章がハンバートの生暖かい臭気を放つ肉欲をいやというほど突き付けてくるので、むせかえるほどの官能の波にもう勘弁してくれと何度思ったか知れない。きちんと最後まで読んだ私を誰か誉めてほしい。

 

 これのどこが世界文学の最高傑作なんだと思われるかもしれない。私もそうだった。最後の数十ページを読むまでは。

 こんなにも穢れた男の中から、これほどまでに美しい言葉が生まれるものなのかと、私は言葉を失った。そこにあったのは、類を見ないほど崇高な道徳賛歌だった。ナボコフはこのわずか百ページに満たない道徳の結晶のために、400ページ以上もの汚物を作り上げたのだ。恵まれない家庭、ネグレクト気味で自己中心的な母親、性的異常者の父親。娘はありきたりの暖かい家族を望んでいた、しかし父はそれに気づけなかった。父は娘を心から愛していたことに気づいた、しかしその愛はもう届かなかった。

私はおまえを愛した。私は五本足の怪物のくせに、お前を愛したのだ。 

第2部 32章より

 ロリータの人生を狂わせたハンバートは、ロリータに付きまとい、彼女の心を弄んだ男のもとへ復讐に行く。全てを失って初めて父となったハンバートは、欲にまみれた目の前の男に過去の自分の幻影を見る。彼は男を殺しながら、自分自身をも殺したのだ。なんというやるせなさ。

 そして彼は『ロリータ』を書いた。父らしいことを何一つしてやれず、ともに生きることも叶わなくなった彼は、芸術という永遠の命の中に二人の居場所をつくった。

 

 ロリータ、我が命の光。口にする度呼び起こされる、苦い後悔と幸せな記憶。ロ・リー・タ。下の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。

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